朝自慢

北朝鮮のアイドルと海産物について

新宿三丁目

f:id:asadziman:20190818225033j:plain

 

 

 何も分からないと言い続けて数日が経った。ツイッターをはじめとした各所で何もわからないと連呼していたがいい加減気味悪がられてると思う。何も分からないというのは本当で、何が分からないのかも分からない。ただ自分が何も分かっていないということばかりが分かる。逆に何も分かってないということを分かることができたので、それだけ知を得ている感じだ。
 人間は基本的に生産性のない生きものだ。自分の快楽のためだけに生活をするなら、それは消費一辺倒になる。自分が生活するのに必要な消費に釣り合う生産をすることが、まずイーブンのラインであって、そこから積み上げてやっと生産的な人間を名乗ることができる。人は誰も一人では生きられない。
 人が一人では生きられないということは結構虚しいことだと思う。これは全部の動植物に共通のものなんだけど、その生きている状態を維持するのはよそから物質を取り込まないといけない。代謝すれば体から何らかの物質が流出するので、その分を補わないと生存ができない。いくら僕が他の誰にも頼らない、何も摂取しないぞと決め込んでも、呼吸によって空気中の酸素を取り込んでいるので意味がない。どうしても他のなにかと連ならない限り生存は続けられない。
 生活は生存ありきだ。生存しなければいけないという強迫観念が今日も僕を苦しめる。生存に必要な動作をしたくない。憎い。それでも生存をしないと生活ができない。生存はしたくないけど生活はしたい。生活は思考の連続であって、思考は貴いものだから、欲しい。ややこしい。

 

 今の僕は本当に何も分かってない。鏡を見ると顔中に発疹の出来たキモい男がそこにいる。不摂生も何も食事をしていない。食事をしないと余計に代謝して顔にフキデモノを出すのか。人間の体が分からない。
 別に僕はヴィーガンではないのだけど、最近自分が他の命を奪ってまで生き永らえることがおこがましいように感じられてきたので、極力肉を食わないようにしている。ラーメンも以前より食べる頻度が劇的に落ちた。家では野菜ばかり食べている。米を食べるのもなんか「ずるい」気がしてきて、米の代わりに豆乳を飲んでいる。まあ豆乳は元々飲んでいるものなので、単に米を抜くようになったというだけなのだけど。
 ビタミンは取っているはずなのに顔はますます醜く、体にもニキビ様のボツボツが出来たりしていく。僕はストレスを受けるとタイムラグ2日くらいで体に発疹ができる体質なのだけど、それがずーっと続いている。もうなにか特定のストレス源に生活が脅かされている気はそんなにしていないのだけど、そのような発疹が出続けているということは、単に心が鈍化してストレスをストレスと思わなくなっているだけなのだろうか。でもちゃんと傷ついていて体からはサインを出している。最悪じゃねえか。
 うっすら感じてるストレスの原因が「なにも分からない」だったら、こんなに残念なことはない。何も分からないという悩みは深刻だけど、こういう無力化は生活を続けていくならつきまとってくるものだろうし、いちいち体が拒絶しているようでは思考を続けることの邪魔になるのではないか。

 ここのところ家で横になっていることが多かった。天井を見たり目を閉じたりしながら色々なことを考えたり思い出したりして、その悲劇的な出来事の原因が自分の無知によるものだったりすることを反省したりしていたのだけど、その反省すべきことをdigるために過去のことを色々思い出したりしていた。
 そういえば最近、天気の子を観た。一度目は辯論部の岩崎くんと日本橋東宝で、二度目は辯論部のレヒベルク君と新宿のピカデリーで。
 新宿で鑑賞したあとに映画館から代々木駅までを歩いた。ピカデリーから代々木駅までは聖地の宝庫だ。特に代々木駅前にある解体中の廃ビルは、作品のキーになる舞台として何度も執拗に登場する。ここを目指してふたりで歩いたわけだ。

 途中、ガードをくぐって東から西に抜けた。振り返ったところで新宿の象徴的な景色の写真が撮れた。新海誠作品にもしばしば登場する構図だ。
 僕は新宿にそんなに行かない。用事がない。今度の水曜から3日間、新宿三井ビルディングで会社対抗のど自慢大会があって、これは観に行く。でもこれは西新宿、都庁とかがある方だ。新宿のメインストリームの部分ではない。

 大体、新宿で用事がある時は新宿三丁目で下車しがちだ。東横から直通で行けるこっちのほうが僕にとってはアクセスがよい。新宿駅で下車した記憶は僕にはほとんどない。新宿駅で待ち合わせていても、新宿三丁目で降りて、そこから歩くということは往々にしてある。
 新宿三丁目は極めて印象の薄い駅だ。改札は複数あるし、出口だって山程ある。というより、新宿駅まで地下通路で繋がっていて、その道中にいくつもの出入り口があるので、新宿三丁目の出入り口、という感覚はあんまりない。だから外界との明確な境というのが改札に依らないとあまり実感できない。
 渋谷駅だったら、あれだけ広がる地下通路も、よその駅に通じているということはなく、ただどこまで行っても渋谷駅の範疇だ。新宿三丁目みたいな構造で言えば大手町や銀座駅もそうなのだけど、あっちは地下通路に商店があるというよりは、駅の購買が延長しているような構成であって、そのまま街、という実感は得にくい。探せばこんな駅はそこらにあるだろうけど、僕の中では入り口と出口の境が曖昧な駅の筆頭として、真っ先に新宿三丁目が挙がるのだ。
 新宿三丁目は本当に分からない駅だ。この駅は何を考えているのか分からない。というか新宿圏内にある色々なモノが、なにか意志を持ってコンセプトが練られているように感じられない。小綺麗であるかのように見せているけれど、文脈が連続しているようでいて連続していない不気味さがある。
 この駅構造は、僕の今の感覚に似ているのかもしれない。どこからが自分の問題と捉えるべきかのボーダーが曖昧で、全部自分が悪いとしか思えないほど悲嘆しているが、その「反省」とやらが生活に成果をもたらす気もしていない。成果がもたされないということは反省の詰めが甘かったり明後日の方向を向いていたりするのだけど、まず考え方の方向が正しいかどうかも分からないし、考える元の情報、状況分析が正しいことを保障してくれるものも何もない。僕は僕の偏見や穿った見方をベースにしてそれを足したり割ったりしながら自己批判を繰り返している感さえあって、それは健全な思考と呼べるのか自信がない。なら僕がこれだけ時間をかけて考えても、全部どこでも何の役にも立たない結果しか生み出せないんじゃないか、感情や感覚をいたずらに濃くするだけで何の利も産めないんじゃないかと怖くなってくる。どこを目指しているか分からないし、考えたはしからプシューと抜けていく感じがある。自分の感情を扱いきれていないまま、構築に失敗した自分の姿を人様にぶつけている。イモムシが蛹になった後に変態している中盤くらいにもう外に出てきてしまうような気持ち悪さと恥ずかしさを感じる。新宿三丁目みたいな気持ち悪さと恥ずかしさだ。

 僕はいつも新宿を三丁目からJR駅にかけて歩くのであって、そこから外に出て色々見たことがほとんどなかった。歌舞伎町は怖くて近寄れないし、ほかも入り組んでいて迷子になりそう。今回新宿の西側に出て南まで歩いたのだけどしばらくデパートの壁に沿っていて面白みのない景色が続いた。そこからJR病院、踏切、廃ビルと連続して聖地が登場したのでテンションが上がった。奥にはおなじみのドコモビルが見えた。
 境目の扱いを決めかねる前にまず外に出てボーダーの外側から詰めていくのは有用なルートかもしれない。思い出しながらそんなことを考えていた。僕はあまりにも答えを内側に求めすぎている気がする。
 でもまともに自分を省みることができない人間がまともな人間になれないこともまた事実なのだ。僕の尊敬している人は徹底して自己分析をして、そこから自分がなりたい姿への道筋を丁寧に引いていた。僕も自分が今何者であるのかをきちんと理解できるように早くならないといけない。
 早くならないといけないのに、実際は何も分からない。僕は今何者で、何を目指しているのかが分からない。もっと広く、自分がどのような人間になっていれば自分は納得できるのかが分からない。誠意のある誠実な人間になりたいが、どうすれば人間の持つ感情に網羅的に共感できるようになり、あらゆるトラブルを三手四手先回りして回避できるような機転を得られ、あらゆる悪意や困難から守りたい人を守れるようになることができるのかが分からない。人間性を磨きたいがどうすれば磨くことができるのか、何をもって磨いたと言えるのか、何も分からない。
 分からない。分からない。何も分からない。
 すべてが全く分からなくなるほど僕は軟弱だったのか。こんな情けない姿をしていると気付くこともできなかった自分がただ恥ずかしい。不甲斐ない。こんなんで誰かの助けになれるかなんてよく考えられたものだ。誰かを助けられる人間になるには、まず自分がしっかりしていないといけないはずだ。

 

 何も分からない情けない人間であるにも関わらず、周囲のリソースを食い荒らしながら、何の生産的な行いをすることもできずにただ生きている。これは生存ではない。考えられないなら真っ当な生活をしているとも言い難い。
 生きているような格好をしながら死んでいるようなものであるなら、実態が伴っていない状態であって非常に気持ち悪い。気持ち悪さを解消するには死ぬのが手っ取り早いけど、そんなこともできないまま本能的な欲求に従って生存を求め続けている。
 新宿三丁目駅は気持ち悪いまんまでも人間の生活の足しになっているが僕はどうだ、こんなブログを書いたところで誰の慰めにもならないし、読んだ人にはなんの利益ももたらさない。呼吸みたいな感じで文章を打っていないと気が済まない。「文章を書く」ことを考えてるうちは余計なことを考えなくて済むので楽だが、これをエントリとして乗っけた瞬間に僕は虚無るのだろうか。嫌だなあ。虚無りたくない。生活はできてない。生存は極力したくない。ないものばっかり求めるし、わがままだし、人の役に立てないし、体もどんどん醜くなるし、自分の生存がますます肯定できなくなっていく。思考がまとまらないので打ち切る。