朝自慢

北朝鮮のアイドルと海産物について

中央大学花井杯弁論大会の総括

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 花井杯の翌日に、渋谷スクランブルスクエアの中を探検した。

 束の間の、自由でいられる楽しい時間だった。

 それでも渋谷の文字が目に入るたびに、区長の顔がちらついた。

 先々週の渋谷区長杯の傷がまだ全然癒えてない。閉会式前に長谷部区長から言われた「去年の提言のほうが面白かった…」という言葉が、ずっと頭の中でリフレインしている。

  

 人間が生活をしていく中で、絶えず価値のアップデートが要求される。新鮮な知識を入れつづけていかないと、自分の考えが凝り固まっていってしまうような気がする。特に僕は、僕の思うことと反対側の意見をなるべく食べるようにしている。聞いていて気持ちのいい意見ばかりを入れてしまうと、エコーチェンバー現象ではないけれど、どんどん価値観が固定化してしまって、思考する主体である自分としての価値を、たちどころに失ってしまうような怖さがある。

 僕が何かの目標を立てる時に、僕はとりわけ自分に自信があるものではないけれど、だからこそと言うべきか、前回の類似ケースで得られた結果以上のものは得られるように頑張る。正直コンテストや大会では出場者によって難易度は変動するものだけど、それでも僕は、こと区長杯に限っては、昨年学長賞という結果を鑑みて、今年こそは区長賞、調子が悪くとも学長賞には、という目標で大会に臨んだ。

 

 審査員講評で、区長から名指しで指摘された。

 置きにいっていて気持ち悪い。

 実現可能性に執着してダイナミックさがなくなってる。

 学生なんだから学生らしくしないと。

 

 学生らしく、って、なんだ。

 採算を度外視した政策を立てることに学生を慣らさせるつもりか。

 そんな人間を抱えられる「社会」なんかどうせないだろう。

 恰好だけ求めて囃し立てても、失敗したら責任を負わせて使い捨てて、どうせ突飛なパーソナリティを集金ツールとして淡々と消費していくだけなんだろう。

 

 夢、と、実現可能性、あるいは現実。

 子供のままでいろといいながら、子供のままでいたら、大人になれという。

 僕もいずれ、いう側の人間になるんだろうな。

 おっさんになるんだろう。

 そういうおっさんになる定めなら、ますます僕は未来のことなんて考えたくない。

 でも未来を考えないと、政策は出てこない。

 なら政策も考えたくない。

 

 

 花井杯で僕が持ち込んだ原稿は、僕が夏の合宿で書いたものだった。ずっとやりたかった弁論のひとつで、それなりのモチベーションを持って書いた原稿だった。

 厳しい意見を受けた。演練もやった。だけど事情があってどこにも出せずに寝かせていた。そんな原稿が、ひょんなことから日の目を見た。

 八ッ場ダム研修で風邪を引いていた僕は、熱が引かないまま演台にあがった。エントリーしていなければ、多摩の会場まで来ることもなく寝ていたと思う。そして東大の弁士が現実を説く様を見ながら、苦々しい思いをすることもなかったのだと思う。

 

 

 

 

 

第一弁士 中央大学「天秤の不条理」

 不妊治療に励む女性のために社会全体で柔軟な休暇制度を設けるべき、との弁論だった。

 聴衆として聞いていて解せない点がいくつかあった。まず弁士は、不妊治療を受けながら正規職員として責任ある仕事を続けることが、女性の生き甲斐になる、と説いていた。大体、責任のある仕事というのは、不測の事態にいつでもフォローを入れられる状態にある人が任される・会社としてはそういう人に任せたいものだと思うし、だから生理がハンデと見なされて女性の社会進出が拒まれてきたという歴史は否定できないものだと思う。だのに「社会は不妊女性に不規則に休暇を取る権利を与え、且つ責任のある仕事を振らなければならない」と主張するのは、まあ確かに理想といえばそうだろうけど、理想が強すぎてしんどいなという感じがした。

 まあぶっちゃけこれはそんなに問題じゃなくて、それより「血の繋がりがあってこその親子」という思想が終始前面に出ていたのがしんどかった。養子についていじわるな野次が色々飛んでいたけれど、弁士も弁士で「腹を痛めて産んだ子供のかわいさよ」みたいなことを繰り返してしまっていて、聴衆と対話を試みる応答やその想定が欠けているような感じがした。

 辞達学会さんの弁論って、社会的に「かわいそう度」の高いマイノリティーを探してきて、彼らへのサポートを訴える、というものが多い気がする。多分そういう弁論を書くように教えられている部分があるように思う。これは野次封じ・質疑封じにはかなり有効で、聴衆が何か野次ろうとすると、弱者を擁護する弁士をいじめるマジョリティになってしまうから、みんな野次れなくなる。まあ勝率を確実に上げるための作戦といえばそうなのだろうけど、今回の問題に関して言えば、結婚・出産・子育てが社会の中で贅沢な営みと化しつつある現状で(それもどうかとは思うのだけど)特に社会強者にしか出来ない「自分の腹を痛めての出産」を「(社会を犠牲にして)させろ」というものだったので、そのへんのところにブルジョアジー趣味を感じて野次が多く飛んだのだと思う。

 僕が当事者だったら多分そういう制度を欲するだろうし、現状の社会で仕事と治療が両立できていない女性には同情するところがあるけれど、ある意味で彼女らの要求がそこそこ贅沢なものであることを加味して「こんなにかわいそうだから救わないと、あなたもそう思うでしょ?」という態度を排する、入れるにしても度合いを下げる必要があった。そういうケアがほとんどないまま、終始「かわいそう度」ばかりを強調してしまったことが、オーディエンスの反感を買ったように感じた。

 そういう意味では不運な弁論だったと言える。ただ、上の不満点を除けば内容に不満な点はほとんどなかった。特に声調は抜群に良かった。緩急がついていて、ペースも整っていて、端切れもよかった。弁論中は聴衆と目を合わせようとしていたのが印象的だった。非常によく練習したのだなと思ったし、花井杯にかける執念みたいなものを感じた。

 そうだ、ここは花井杯だ。40年前には年間チャンピオンを決していたと言われる、抜群の伝統を誇る重要大会だ。彼女の弁論を聞いて、僕は身が引き締まる思いがした。

 

第二弁士 法政大学「小さな悪魔」

 声調で躓いていたように感じる。第一弁士がよかっただけに、もどかしく感じた。

 弁論自体は整っていたが、質疑応答で言い淀みが多かった。こちらは滑舌というよりも、回答の内容について少し不満だった。本当はよく調べていたのかもしれないけれど、言葉尻から不安げな、自信のなさそうな感じが伝わってきてしまった。もし用意していなかったのなら準備不足だろうし、用意していたのなら練習不足だったのかもしれない。

 胃がんの原因であるピロリ菌を殲滅せよ、という弁論だった。確かに根絶できればこんなに喜ばしいことはないのだろうけど、それにかかるコストが大きすぎるように感じる。それこそ実現可能性で言えば、登壇弁士の中で群を抜いて低い。一番の問題は、発表の中でピロリ菌の問題があまりに強調されすぎていたことだ。前に日大桜門杯の総括の記事の中(第九弁士の箇所)にも書いたのだけど、非常に強い言葉、非常に大きな主語で、ピロリ菌問題を説いていたように感じる。他にも病気はたくさんあって、それこそ癌だって種類がいくつもある中で、どうして胃がんだけが、そんなデカい政策で根絶されなければいけないのかが分からなかった。総合的な定期検診の中にピロリ菌検査のフローを入れるならまだしも、このためだけに全国民を病院に行かせようとするのは、ちょっと腑に落ちないところがあった。

 まあでも、弁士の問題意識はよく分かった。同情はできないけど理解はできた。言葉が強いことを除けば原稿の流れは綺麗で、主張と根拠の展開も分かりやすかった。聞いている側に配慮とか余計な思考を求めない、受け取りやすい弁論だった。政策も、アプローチ先を自営業者とかに絞ればすんなり取ることのできるものだった。(という指摘がSlackに上がっていたけど、僕もそう思う)

 

第三弁士 國學院大學「輝く朝に」(第三席)

 スゥッ・・・・・・・

 ワイやぞ!!!

 弁論中に言及した「사랑하노라」は、ここで合法的に聴けます。
 このサイトは北朝鮮プロパガンダサイト「わが民族同士」で、他にもNK-POPの原曲が歌詞つきで上がっているので便利。ただしアクセスしてどうなっても僕は知りません。

 上のリンクに貼ってあるものは女性歌唱なのだけど、本当は弁論中に言っていたような「伸びのあるテナーソロ」「重厚な男声コーラス」を聞いて欲しくて、それは功勲国家合唱団が歌っているものなのだけど、ググったらYouTubeのしか出てこないみたいで・・・。

 みんなも衛星放送で、朝鮮中央テレビ、見よう!

 

第四弁士 慶應義塾大学「外圧」

 内容だけ聞いてると本当にケチのつけようがないものだと思っているので、入賞できなかったのは完全に声調な気がする。早口すぎた、時間を余しすぎた、練習をしていなかったのが敗因では。

 君にとってはある意味ではアウェーのような会場だったので、そこに体調不良が重なってしまえばまあそうなるよな、という気がした。

 少し気になった点を言うと、別にこれは前からだけど、質疑で内容を話し終えてから「以上です」と言うまでがノータイムなので、ちょっと余裕がないように感じる。全体的に早口になるのはしょうがないと思うけど、これくらいは若干間を開けるように心がけると、より丁寧な応答をしているように感じられるんではないでしょうか。

 最後の質疑で「刺された」ように見えたけど、これについては君のエントリを待ちます。ともかく次の大会も頑張ってください。

 

第五弁士 東京大学理想社会へ」(準優勝・聴衆審査賞)

 弁論の実現可能性について【当事者意識】と【費用対効果】をキーワードにして検討する価値弁論だった。itbはこういう『弁論弁論』が多い気がする。

 最終盤で放った「政治的な議論をするときは、自分の属する世界で、自分のお金を使ってやっても許せるかを考えろ」等の一連の主張は、まさに僕が以前から思っていることのマンマだったので、ウンウンと頷きながら聞いていた。

 けれども聴衆の受けが全体を通してかなり悪かった。特に早稲田と明治の方向から野次が飛んでいた。というのも彼ら、雄弁部/雄弁会が設立されたきっかけが足尾銅山鉱毒事件で、設立動機が社会正義を訴える義侠心だったらしいのだ。(パッションとも言っていた)

 だからこそ、全部の政策は結局金次第という弁士の主張に対して、盛んに不満を言っていたのだろう。社会を構成する事象というのは全部政策に回収できる部分があるのだろうけど、それを更に「結局全ては金次第」とやってしまうのは、少々乱暴な議論だったように思う。足尾銅山かて、当時に金の問題にしていたら田中正造には確実に勝ち目はなかったわけだし、僕が春秋杯で扱った町田問題・・・とはちょっと違うかもしれないけど、領有権問題みたいな民族感情が絡む問題には、一概に金銭価値や経済効果を試算したところでどうしようもならない部分はあると思う。

 やんすと君が質疑で言っていた「政策のコスパは時代によって変動するけど、政策は価値が上昇する前から予測して打っておかなければいけないので、発表タイミングでの価値・コスパを基準に審査してしまうと、現実に即した提言が出来ない」というのは本当にそうで、例えば治水事業なんかも気候の変動で重要性は変わるだろうし、今の価値のものさしで数十年先を測ることはできないわけだから、実現可能性の点から夢物語のように見える弁論でも、大切にしていく必要があるんじゃないか、とは思った。思いながら、エントリ冒頭に書いたこととの対立が自分の中で起こって、勝手に苦しくなった。

 僕だったら、似たような弁論をするとしたら、功利主義の議論を持ち出して「弁士は幸福の総量が多くなる政策を検討しろ」とやったと思う。というかやろうかな。

 itbらしい、論点の分かりやすい原稿構成でした。声量はもう少し頑張れたらよいかもしれないです。受賞おめでとうございます。

 

第六弁士 日本大学児童虐待

 児童虐待の中でも心理的虐待にフォーカスして、具体例を上げながらその悲惨さを訴え、聴衆に意識改革を求める価値弁論だった。

 いやもうホントに良かった・・・ すき・・・

 僕の場合はめっっっっっっちゃバイアスかかった状態で聞いてしまったんで、正常な判断が出来てないかもしれないけど、全体の中では特によくできた弁論だったと思う。結果発表までは真剣に、第一、第五、第六の三人が優勝候補だと思ってたし、何かしらは賞を取るだろうと思っていた。

 何か書こうと思ったけど、内容の部分ではケチをつけるところが見当たらない。識者の見解や論文、身近なところにある取り組みを逐次適切に引いて説得力を持たせる手法に手慣れているような印象を受けたけど、そもそも弁論作成が初めてと聞いて驚き。声もちゃんと出ていたし、滑舌よくハキハキと喋れていてよかった。

 大会後にも少し話したけれど、ひとつだけケチをつけるとすれば、声調に起伏があまり感じられなかった。淡々と話すフェーズと感情を込めて話すフェーズが、原稿だとわりかしハッキリ分かれていたのに、同じ調子で読んでいたのが残念だった。あまり大げさにする必要はないけど、うまく間を挿れたり分かりやすく切り替えたり、表情で訴えたりするとかするとよいかもしれないです。

 

第七弁士 中央大学「親の使命、子の運命」(優勝)

 レセプションでド滑りしていたイメージが強すぎてマトモに思い出せない。

 声がデカいし主語もデカい。かわいそう度を強調しすぎてくどかった。政策も問題の根本的な解決が期待できないもので、かなりケチがついていたように感じた。特に最後の質疑で完全に刺されたと思っていた。

 でも審査員の評価は高かったのだろうし、彼は格式高いこの大会のチャンピオンとして名前を刻むことになったのだから、ここで僕がいくらケチをつけても負け惜しみにしかならない気がする。

 

 

 

 

 

 大会全体を通しての評価を、と考えても、なんだか掴みどころのない大会だったように感じて、あんまり書けない。言ってることはバラバラでまとまりはなかったし、審査員講評も弁士に向けたものではなかった。

 聴衆として聞く限りだと、第六弁士はともかく、第一弁士が気を吐いていたのが印象的だった。社会全体で共有したい理想があって、その理想とかけ離れた現実の悲惨さがあって、解決させようにも取っつきづらい。そういう問題になんとか光を当てようとする気概みたいなものに、僕はどうにも救われた。こういう弁論を目指さないといけないな、と特に思った。

 

 今回の大会で、僕は「音楽は平等」という、言ってしまえば身も蓋もないことを喋って戦った。書き始めた時のモチベーションは高かったし、書き途中でやんすと君にボコボコにされてから、なにくそという気持ちで頑張った。

 大会当日、僕は春秋杯ほどの戦意を保てずに会場にいた。それでも頑張れたのは、あの夏の積み上げがあったからだと思う。

 世界を良くしたいと思って弁論を書いている。優勝するためにやってるって人もいるけれど、少なくとも僕はこの世界にはクソな部分が多すぎて、怒りややるせなさを誰かと共有したくて演台に立っている。それはブログという手段でも叶えられるけれど、自分の口で語ってこそという思いがして、どうしても演台から離れられない。

 自意識過剰なんだと思う。僕が見ている夢を否定されたくないなら、僕は大会で優勝して優位を示すしかない。でも大会で優勝できることと辻立ちして集客することは違う。夢だけでは政治は出来ない。

 学生なんだから夢を見ていろって区長が言っていたのは、もしかしたら区長もまた、大人側の世界で夢を否定されて打ちのめされているからなのかもしれない。

 

 これから僕は何を考えて、それとどう向き合えばいいのだろう。初めて賞を取って嬉しかったのも束の間、矢継ぎ早に課題が打ち込まれていく。僕は受け止めきれないまま、おたおたと慌てふためくばかりになってしまった。