朝自慢

北朝鮮のアイドルと海産物について

男として生きるという苦痛

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ミライトワには性別はないが、色や造形をソメイティと対比することで、デザインに男性寄りの性規範が敷かれていると推定することができる

※当記事は読者から複数の問題点を指摘されており、現在修正、ないし追記を検討しています。検証のため当分現状のまま残しておきますが、内容に一部差別的な表現があること、事実誤認があることなどに留意いただいた上でお読みください。


 女に生まれたかったってずっと言っている。

 男に生まれたからには、大学に行かなければならない。就職して妻と子供を養い、名前を継いでいかなければならない。

 男女雇用機会均等法だとかジェンダーレスだとか、社会が上辺の平等を欲するアクションをとることは、公平な社会を実現するための正しいアプローチと言えるのだろうか。言葉で飾るようなことが多いが、その実、マトモではないシステムにコーティングをするような、腐食した建屋に化粧板を貼ってテナントをぶち込むような、そういう修飾が目立つ昨今である。

 

 自分は意気地のない人間だと言われていた。幼稚園の頃からだ。男らしくないと言われた。このことでよくからかわれた。腕っぷしがアホほど弱く逃げ足だけが早かったので、よく園庭を遁走していた。大熊くんとか門脇くんとか、もしかしたら名前は違ったかもしれないけど、ずっと誰かから逃げていたなあ。

 暴力の練習に使われることがよくあったので、暴力を極度に忌避していた。家でアンパンマンを見ているとき、アンパンマンとばいきんマンが対面するシーンになると画面を体で隠していた。リモコンを触ることはできなかったので、このように抵抗していたのだが、母親からはよく怒られていた。行儀よく見なさい、ったって、暴力シーンだぞ。子供に暴力シーンを我慢して見ろっていうのか。今思い出しても理不尽な怒られ方をされたと思うが、それでも当時は親なりにソフトな暴力への耐性をつけさせたかったのかもしれない。

 僕の暴力アレルギーは特に強いものがあった。同じ組の人がよく「ドラゴンボール」の話をしていた。ゲームセンターで100円を入れてやるカードダスだ。当時の同い年くらいの人はみんなやっていた。近所の商業施設のゲームコーナーにも筐体が置いてあって、まわりの男の子はこぞってやっていた。

 僕は遠巻きに見るだけでもダメだった。男が男を殴っている。それをよく知った人間が「遊び」として操作している。このようにして暴力が生産されるのだと憤ったりもした。

 

 同じくらいの頃、みんなゲームボーイアドバンスを持っていた。僕は持っていなかった。僕の家は保守的であった。子供はテレビを見ることを原則許されていなかった。これはつい最近まで続いていた。「インターネットがまだメインカルチャーと呼べなかった時代」のインターネットにばかり触れ、メインストリームからは外れた文化圏で育った。そのせいで起こった悲劇について、前のブログで書いた。

asadziman.hatenablog.com

 テレビを見られないことによる文化的な隔絶による障害は、より深刻度が増すのが小中学校にあがってからだったが、幼稚園当時はゲームボーイ、特にポケモンを遊んでいない子供には人権がなかった。これは本当の話である。僕の住んでいたような片田舎でもそのような状態だったのだから、どれだけポケモンが日本で猛威を奮っていたのか。

 そのような情勢も鑑みてくれたのか、いつぞやの誕生日、ついに僕はゲームボーイアドバンスSPを買ってもらった。ポケットモンスターエメラルドを挿して遊んだ。何周もした。友達と通信対戦もした。

 ポケモンに簡単にハマった僕を見て、父さんが言った。

 「義俊、暴力ハンタイなんじゃなかったのか」

 僕は返した。

 「ポケモンは人間同士が殴り合ってるわけじゃないし」

 それを聞いた父さんは、顔をしかめてこう言った。

 「おかしいな。ポケモンは自分の飼ってるモンスターと、相手の飼ってるモンスターを戦わせるんだろ。自分たち同士が戦ってボロボロになるんじゃなくて、飼ってるモンスター同士を戦ってボロボロにさせるんだろ。そっちのほうがよっぽど暴力じゃないのか。」

 

 僕はこれを聞いてから、コンテンツとして受け容れられる暴力を、どうにかして自分も受け容れようと努力することになった。幼い僕にとって、これはかなりしんどいことであった。ドラゴンボールから、アンパンマンから目をそらさないのである。

 ポケモンは男の遊びであり、ドラゴンボールも男の遊びであった。そして両方とも、暴力を題材にしている。男は暴力に惹かれ、また暴力から逃げることはできなかったのである。

 この体験は、僕にとって相当ストレスがかかるものであった。結局暴力に順応するというよりは、自分の心を鈍化させるほかになかったのも、僕の苦痛を増大させた。男として生きるということ自体に、初めて嫌悪感を持ったタイミングだったかもしれない。

 

 母さんは専業主婦だった。そして近隣住民や親戚にも、そのような人が多かった。ここでは女性の進路に対するマトモなサンプルが欠如していて、将来の夢と言われても、主婦、先生、パティシエくらいしか思いつかないような環境だった。

 僕の両親もそのような環境、そのような認識で生きてきたらしかった。

 僕が「男らしくない」ことについて、頻繁に怒られが発生した。

 体力がない。根性がない。虫に触れない。殴り返せない。いずれの傾向も、今現在に至るまでちっとも矯正されていないが、特段それで困ってはいない。体力がなければ交通機関を使えばいいし、根性がなければGoogleカレンダーやTrelloなんかで自分に発破をかければいいし、虫に触れないなら掃除機で吸えばいいし、殴られたら通報すればいいからだ。

 しかし僕へ向けられた怒られは、生きるチカラそのものが欠乏していて、それを改善しようという意思がないらしいことへの反省を促すものが多かった。自己批判の強要であり、いわゆる総括である。

 自己批判を強要され続けたら、人間はどうなってしまうのか。僕はそれをよく知っているつもりなので、他人に自己批判を求めることがないようにしている。

 

 他方で、同じ組の女子には、そんな縛りがないように見えた。そう見えていただけで、実際には縛りがあった可能性が濃厚であるが、しかし僕の観測範囲では女子はドッヂボールをし、ムシキングをし、砂遊びをし、折り紙をしていた。僕は折り紙が好きだったが、自由時間に教室で折り紙を折っている男子はいなかった。だから外で砂遊び用のおままごとセット(プラ製のティーカップや皿などがあった)を色別に仕分けて、取りに来た人に渡すということを無限にやっていた。ASDの目覚めであろう。

 僕には女子が大変自由なものに見えた。自分の遊び場を自分で決められるのだ。そして僕に暴力を振るうこともない。僕は何人かの女子と仲良くなって、一緒に遊ぶことがあった。とても平和で、たおやかな時間だった。

 

 小学校に上がり、苦痛はどんどん増していった。特に5年6年ともなると、女性は胸が発達してくるわけだが、以来僕はずっと胸の大きい女性が苦手だ。僕は結局ホモソーシャルに馴染めなかったわけだけど、そんな僕が拠り所としていたコミュニティが、どんどん瓦解していき、僕の手の届かないところで再構成されていくのを感じた。「子供」から「女の子」が抜けて「女性」に転属していく。僕だけが「子供」に取り残された。友達は日増しに減っていき、病院にかかって発達障害の診断をもらって、施設へ通うようになった。

 

 僕は性欲が尋常じゃないくらい強い。原因は分からない。先天的なものなのか、それとも環境がそうさせたのか。

 しかし僕は性的なものが嫌いだ。性を資本主義に回収し、すべての人間を当事者として巻き込んでいく社会が嫌いだ。

 僕は広告にタレントが使われること自体がルッキズムを亢進させていると思っているのでアイドルって存在(特に顔面や肉体の性的魅力で売ってる芸能人)が嫌いなのだけど、

asadziman.hatenablog.com

 この記事に

これも話すと長くなっちゃうから今回は書かないけれど、僕は男の自分に性欲ってものがあるのが昔からすごく嫌で気持ち悪くて、できることなら女に生まれてきたかったとずっと思ってきた。

 こう書いたように、性的当事者としての男性性を持つ自分について、未だに激しく自己嫌悪している。「男」がいるからAVみたいな暴力コンテンツがのさばっているのだと思う。これを解消するには、去勢か死かしかないのかもしれない。

 

 人間の誠実さの土台には理性がある。誠実であるためには理性でもって自分を律さなければならない。邪な気持ちで取引きに臨むようなことがある時、その邪な気持ちは何を叶えるための邪であるのか。お金かもしれないし権力かもしれないけれど、お金も権力も結局、最終的には性的な望みを叶えるために、そこへ向かう様々な態様のものに対して行使されるものだと思う。なんか根拠があって言ってるわけではないけど、体感では世の中そうやって回ってるような感じがある。

 性欲を削ぎ落としていけば、理性を強くして、誠実な人間に近づける・・・とは短絡的な考え方かもしれないけれど、僕は自分の理性を信用していないので、どうしてもまずは性欲に勝たないといけないと思っている。そして僕の理性より信用できる理性を持っている男がいるような気が全然しないので、ミサンドリー的な考えとは分かっているけれど、やはり世の中の男性という男性が去勢するか、あるいは数自体が減れば、もっと理性的で平和な世界になるのに、と思い続けている。

 でもいつか「こう思っている自分」を打倒しないといけないはずで、その見込みを立てるのが今の僕の仕事だ。だって「こう思っている自分」の望みを叶えるには、まず一番に「性欲の強い男性の個体」である自分を処分しないといけないのだけど、僕ひとりが死んだところで問題がどうにかなるわけではなく、ただ自分の死にたい気持ちに理由を与える以上の意味にはならないからだ。

 

4

 僕が勝手にジレンマを抱えてビイビイ言ってたところで所詮は戯言であって、実際にジェンダーロールによって不利益を被りがちなのは女性なのだ。

 そのことを考えると僕が「男であることを強いられる苦しみ」を訴えることはすごく頓痴気なことだろう。

 つまるところ僕は「女性として生きるよりも男性として生きるほうが苦痛が大きい」と訴えることはできないし、男性の中でも自分はジェンダーロールに徹することを怠り異議を唱えるばかりであるから、相対的に一番怠けている立場になるわけだが、それでも僕が「男は苦痛」と訴えざるを得ないのは、性の優劣ではなく自分個人が「男性」で括られたものとのウマが合わず、一方で「女性」で括られたものとは相性がよさそうだと感じているからだ。ある意味で女性化願望であり、それが叶えられないので、女性性に対して劣等感を持ち続けているのだ。

 僕は生まれから古臭い性規範に囲まれていたし、未だに従うことを強要され続けているのだけど、そういう空気の根源は社会構造自体に求められるだろうし、そうなってるのは国民の大半が深いところでジェンダーを舐めてるからだと思う。

 欧米への憧れから見た目だけ取り繕うかもしれないけど、自分の性を──それは男と女という二極化された価値観ではなく、もっと多方面に伸びるものとして──自由に利用していいと、みんなが思って欲しいと思っている。

 教室や校庭で、もっと沢山の子供が笑えるようになってほしい。

 

 眠いので打ち切る