朝自慢

北朝鮮のアイドルと海産物について

ゆきだるまのぬいぐるみ

 日曜日にサンリオピューロランドに行った。縁があって誘っていただいた。ペアチケットを入手したんですけど一緒にどうですか、なんてデートを誘う口実に強引に使うような言葉をまさか自分がかけられるなんて思ってもいなかった。誘ってくれた相手は僕にそのようなことを言わないような人だと思っていた。行ってみれば、実際本当にペアチケットが先にあって、その相手としてお声がけいただいたというものだった。

 だからどう、なんてことはない。僕は嬉しかった。友人としてピューロランドに誘ってもらえて、また誘う相手の選択肢として僕を挙げてくれたことが嬉しかった。それに僕はサンリオキャラクターやディズニーキャラクターが大好きだ。かわいくてファンシーなものが好きだ。おとぎ話に人一倍ワクワクするのだ。

 

 キャラクターものは、特に女性のものであるという認識が、こと日本においては広く浸透している。僕はその風潮が嫌いだけれど、そういう認識が綿々続いている原因にも理解ができる。企業は女性にターゲットを絞って事業展開をする。ターゲットを絞ったほうが広報にかけるコストは安く抑えられる。僕が前のインターンで上司からよく言われた。僕が広告を打つ企画をしたときに、お前が引こうとしている導線はどの層を想定していて、どれくらい定着できる見込みなのか。それは出稿コストに見合っているのか、とか色々言われた気がする。

 キャラクターを動かすにはお金が介在する。デザイナーはビジネスと割り切って企画をするだろう。プロフェッショナルとは、ある程度割り切りができて、その割り切りの中にも自分の主張を残せるような、そういうバランスの指向に優れた人材のことを言うのだろう。僕は僕の思う正義と現実のバランスの狭間に揉まれ続けた。感性が汚れ濁るとは、こういう現場に入り浸ることを言うのかもしれない、などと気取ったことを思っていたけど、本当のプロフェッショナルは【諦め】ではなく【我慢】で仕事をするのだろう。『隙きあらば』ができる嗅覚・体力・行動力がある人が、デザイナーとしてもプランナーとしても優れているし、そういう技術の上に素晴らしい仕事が立っている。

 

 人間は夢を見る。夢の中に希望を見る。

 希望があるから我慢ができる。チームの我慢強さの如何は、プロジェクトの成否と非常に密接である。

 夢の根拠は人それぞれだろう。野心的なものであったり、ぼんやりと楽観的であったり、それは原因とも呼ぶべきものかもしれない。

 行動の現場にあるかもしれないし、生活に組み込まれたものかもしれない。

 人間に永遠はない。必ずの約束事もしがたい。成就の可能性の低いものほど利回りは高い。可能性の高い約でも、完全に利回りがないものに人間は投資できない。

 時に人間は、他人が希望を持つことに理解ができない。

 こんなものに救われている人間がいるのか、と、他人が希望の拠り所にしているものを勝手に持ち去ったり、破壊してしまったりする。

 人間は基本的には他人の感情に無頓着で、頓着しているフリを繰り返して体面を相互に保っている。

 それが、気遣いの本質であろうと思う。

 

 他人に向く気遣いにかけられるコストが自分の利益と相反した時、そしてその天秤が自分側に傾けられる時にする決定は、無邪気な残酷さがあろう。

 僕はそれが、とてもとても怖い。

 とてもとてもとても怖い。

 自分がされて嫌だから僕は他人にしたくない。

 したくないけど、よほど気をつけていないと、人間はそういう選択を日常の中で繰り返す。僕も捻転した行為をず~~~~~~~っと繰り返している。

 

 日々の生活の安心感の担保にキャラクターの存在を据えていた僕は、妹のぬいぐるみを理解する兄というペルソナを被ってそれらを愛でてきた。

 自分の分を求めたり一緒に寝たりして、擬似的に安心を得ていた。ファンシーな空想がキャラクターグッズに人格を与え、家族とは別に僕を無条件で承認してくれる存在として、彼らは傍に居続けた。

 彼らが僕に寄り添ってくれていると念じればこそ、彼らは僕に寄り添ってくれていたのだ。

 

 だからつい30分くらい前に、ゆきだるまのぬいぐるみがベランダにむき出しで置かれているのを見た時、僕は血の気が引く思いをしたのだ。

 僕が小学生くらいの時にコストコかどこかで買った1000円そこらのぬいぐるみは、当時は僕の背丈よりも若干大きいくらいだったが、今ではすっかり僕が追い抜いてしまった。

 ぬいぐるみというよりは、シーズンになったら玄関脇に立てて置いておくようなもので、オブジェに近かった。でも彼は僕の幼少期の記憶に寄り添い続けた。彼が立つ場所がどれだけ変遷しようが、冬になればちゃんと出てきて毎日僕の生活に収まり続けた。

 彼は商業的に与えられたキャラクターこそなかったけれど、僕の生活に確かに寄り添い続けた。彼が僕を裏切り失望させることなど永遠にないと分かりきっていたからこそ、僕は彼を信頼して、そこに立つことを許した。粗雑な態度なと取ったことがない。家族がいないときは挨拶をして家を出た。僕も彼を裏切ることをしなかった。

 

 台風15号が猛烈な嵐を関東に持ち込んで、僕の家のまわりにも避難情報が出た。

 地域の公民館には役所の人がいて、避難者の受け入れ準備をしていた。

 ピューロランドから帰ってきて、少ししたら雨風が激しくなってきた。

 ベランダに放置されたダンボールなんかなんとも思わないで、僕らは洗濯物を取り込んだ。

 ときたま木の枝がメキッと折れる音を聞いて、激しいなあなんて思いながら寝たり起きたりした。

 

 翌日は、朝には起きて、でかけて、帰ってきて、仕事を少しして、夜になったら寝た。

 それで今日になった。

 起きて、朝食を取って、自室で音楽を聴きながら作業をして、さっき出てきてベランダを見たら、ゆきだるまのぬいぐるみが置いてあった。

 母さんが「あなたの番です」の最終回の録画を見ていた。

「あれ、ゆきだるまのぬいぐるみ、どうして外にあるん」

「外に置いてあったダンボールが台風で濡れちゃったでしょ。中にあれが入ってて一緒にびちょびちょになってたから乾かしてんの」

「外に野ざらしなんてかわいそうじゃん、ダメになっちゃう」

「義俊が小学生の時からずっとあるよね、あれ。しまう場所ないから外に置いてたら芯まで濡れちゃったし、中まで綿だから今度こそダメじゃないのかしら。人形供養かなんかに出そうかな」

 

 勝手に愛着を持って勝手に処分して勝手に供養した気になるのは人間のエゴだろうけど、母さんはそうしないと持たない僕に気を使ってそんなことを言ったのだろう。

 もう古く、耐用年数的にも限界だろうし、雨曝しになってしまったぬいぐるみを処分しようとするのは何も間違っていない。

 生活を彩る消耗品であるのだから、その個体そのものに執着するのは間違ったことなのだろう。

 だから間違っているのは僕で、憤慨のような感情を覚えた僕が社会に適応できない情けない者なのだろう。

 優しさとか純粋さとかとは違う、意地汚い執着、こだわり、固執

 

 僕を承認し、肯定してくれた存在が、葬られていく。僕が彼らに抱いていた感情は、21歳男性のもつものとしては極めて不健全で不健康でイレギュラーなものだったろう。

 人間は、僕にとってのぬいぐるみのような存在を形を変えて少なからず持っているにしろ、処分して入れ替えて、鮮度を保たせて運用しているのだろう。

 僕はそんな器用なことを覚えないまま大人になってしまった。

 覚えさせようとされてきた自覚はあっても、おそらく僕は拒み続けた。

 みんな前に進んでいく。自分にするように、自分を飾るものもアップデートしつづけていく。

 置いていかれて胸が詰まる思いで窓の外を見る僕は、明らかに社会から取り残されている。

 

 人間は、20年も生きていれば、ある程度は生活にも慣れて、やがて生活のプロフェッショナルとして生存を勝ち取るのだろう。

 大人になるためにぬいぐるみを捨てるくらいなら大人になんてならなくていいと思ってしまった僕が、いったい大人の生活に何を与することができるというのか?

 机に置かれたポムポムプリンのカチューシャは、表情なく耳をもたげている。