朝自慢

北朝鮮のアイドルと海産物について

日本大学桜門杯弁論大会(23)の総括

 先に書いておく。僕たちが青春と呼べる時間はあまり長くない。

 志向が実験的なものに傾いていけばいくほど中庸から遠ざかっていく。現状を異常と分析して改革を試みていくうちに、僕たちは正常バイアスのドツボに嵌っていく。

 別にこれは特定弁士に向けて言っているのではないのだけど、それは読んでいくうちに分かると思う。

  

 前回の拓殖大総長杯と今回の桜門杯、どちらも弊部から國學院代表弁士として二人の部員に出場してもらった。いずれの原稿も夏合宿くらいからずっと書いていてもらっていたもので、仕上げにGoogle Documentsを使った。オンラインで原稿を共有して、24時間いつでも好きな時に、部員間で相互に修正点を洗い出したり、改善案を出し合ったりして、チームプレーで原稿を詰めていった。

 僕は常々、弁論協議会はSlackでやるべきだ!と訴えているけれど、発話の前にとにかく文章を煮込まないといけない学生弁論にあっては、膨大な文字を捌かないといけないわけで、この作業はITの恩恵を非常に受けやすいところだと思う。弁論界隈はどんどんIT化を促進させていったほうがいいように思う。

 國學院の辯論部がSlackを導入して久しいけれど、こういう波が弁論界隈全体に浸透させられるように、僕たちで頑張って普及させていかなければという思いでいる。オンライン化は物理的な距離が障壁になっている色々なことに効く。学生弁論がより開かれたものになれば、こんなにいいことはないだろうと思う。

 

 さて。

 前回の拓殖杯で、その場に居合わせた界隈一同は、とある審査員からミッチリ絞られた。これは経験、というかトラウマとして、多くの部会員の心に残っているのではないだろうかと思う。

 

 

 怖いな~って思って聞いていたし、案の定「怖いな~って思って聞いていた」人が他にもいた。 

 自己言及性の低い弁論をしていて、問題意識が弁士自体と張り付いていない、どこか遠くから話しているようで、問題を訴えながら突き放した態度をしているように見える。こんなことを言われては、そもそも前提として、なんで弁論をしているのか、どうして弁論という手段でもって訴えなければいけないのか、というところが崩れてしまう。だからあの全体講評の指弾は我々にとって恐ろしいものだったのだ。

 ここで今回の全体講評を見てみよう。

 

「全体的に紳士的な弁論だった。ただどれももう一歩が足りない。」

「しっかり情報収集、しっかり分析、しっかり弁論の筋を作って欲しい。」

「弁論は奇を衒ったものになりがちだけど、この時代は情報が溢れている。図書館に行けば、ネットを使えば、欲しい情報はかんたんに手に入る。そういう環境だと弁論にしようとする話題なんか議論が尽くされていがちだし、そうそう新しい解決策なんか出てこない。でもそれでいい。せっかく問題を取り上げるのなら、聞いている人に問題のコアの部分、弁論の筋がちゃんと伝わる、分かる弁論をして欲しい。

「弁論大会にしては新しいであろう手法を用いている弁士が少なからずいたが、ほとんど効果的に使われていない。むしろ逆効果になっている気がした。」

新しいことをするなら、ただ新しいことをするのではなく、意図を持って取り入れて欲しい。

「どんな野次が来ても最後まで自分を貫き通す気概が見たい。」

大会に出ることはゴールではない。大会に出ることがゴールのようになっている弁士がいた。

「壇上で何かを伝えようとするなら色々な形がある。弁論という形式を使うなら一定の論理性が必要。」

「弁論は自分の思いを多角的に検証する必要のあるもので、だからこそ責任が伴う。テーマについて真剣に勉強しないといけないし、現場に行く、現場の声を聞く必要がある。

 

 ・・・全体的にフワッとしている、気がする。

 上の部分では割愛したけど、どの審査員も、特に審査員長が時間を割いて、特定の弁士に対して晒し上げに近い講評を行ったことは印象深かった。僕はそれを聞きながら、他人事とはいえ、これが大人のすることか、と怒りを感じていた。レセプションで彼が泣きながら前に立った時、後方から飛んできた「大会が終わればノーサイド!」のデカい声に、僕は沈黙を以って抵抗することしか出来なかった。

 

 

 

 

 

第一弁士 日本大学「新しい道徳」

 朝っぱらから目が覚めるような反出生主義弁論だった。生活の本質は苦しみにあって、今生きている人たちだけでもこれだけ痛みに喘いでいて苦しそうなのに、これから生まれてくる子供は親の為に無理やり生み出されてかわいそうだ、だから子供を作るな、と、大体こんな感じの弁論だった。

 悲しみは慣れないが喜びは慣れる。求める喜びは日増しに増えていき満たされることはない。苦しみがそれ以上に慣れることはないから、トータルで考えると苦しみの方が多い――。印象的な表現で訥々と『生の悲惨さ』を訴える弁士の悲痛な叫びに、僕らはライバルながらシュンとなってしまった。

 慶應藤澤が「俺の親は間違った選択をしたというのか!?」と質問したのに対して、弁士は「あなたの両親は間違えた!」と堂々切り替えしていたのには感心したけれど、あの質疑で審査員の中に敵を作っただろうなという気がした。弁論と野次の関係や質疑応答のシステムからも分かるように、弁論の本質とは聴衆との対話であって、突き返すような返答はいい顔をされない。でも他にどう返すのが正解だったのかは僕には分からない。分からないから、そんな無責任なことは書けない。だから彼が入賞できなかったのは仕方ないと思う反面、ならどうすれば入賞できたのかが分からない。もう声調を厳密にやるほかなかったのかもしれないように思う。

 

第二弁士 明治大学ナショナリズムの時代」(審査員賞)

 この弁士はナショナリズムを煽りたいのか排したいのか分からなかった。どちらかというと多分煽りたいんだと思う。ナショナリズムとはつまり、能動的に仲間外れを作る行いであって、その道具として人種や宗教を使っていたところを「言語」って価値観に変えていこう、と提案するのは、新たな差別を促進させる材料をぶち上げているだけに見えて、どこか危ない感じの弁論だったように思う。

 言葉は後天的なものだから人種で決めるより理不尽さはない、とは弁士の弁であったけど、それでは例えば知的障害者とか、学習に困難がある立場の人間を除外していていけないと思う。日本語を解するかどうかが日本人の分かれ目であるなら、今まで日本人の血が流れているために日本人で括られてきた人たちが、日本語能力がないために一斉に排除されてしまう。そうであるのなら、彼らは一体「誰」になってしまうのか。

 僕が怖いと感じたのは、深夜のコンビニで外国人実習生に突っかかるオッサンが「日本語喋れないやつが日本で接客してんじゃねーよ」って叫んでいたのを見たから、ってのもあると思う。日本語の出来る・出来ないが、人間の優劣を決めるボーダーになってはいけないように思う。もっとも、彼はナショナリズムの基準を言語にズラそうと言っているだけなので、これは考えすぎかもしれないけれど。

 ただ、審査員講評でもあったように、彼の問題提起には光るものがあった。最初に提示した民族アイデンティティの問題から離れず、取り巻く問題を一気にピックアップしていた彼の手法は、見ていて勉強になった。

 

第三弁士 國學院大學「Uターン」

 JRを再国鉄化し、すべての私鉄をも国有化すべし、という弁論だった。並行在来線問題を取り上げた時に、早稲田のほうから「それはそう!」と野次が飛んだところで一気に場が和んだような気がする。

 声調に時間を割いて丁寧にやった甲斐があってか、大会後に多くの方から「声調ならお宅のとこが一番よかったと思うよ」と言っていただけた。嬉しくて嬉しくて・・・本当に頑張ってよかったと思う。賞は取れなかったけど、おめでとうと言いたい気分です。

 

第四弁士 東京大学「日本語が読めない人々」

 機能的非識字をテンポよく紹介して問題提起に移行する手法は見事。スライドの使い方も上手だったし、スタイリッシュだった。質疑応答でテンパって早口になったりしてしまっていたけど、全体を通して堅調な弁論を展開していて地頭の良さを感じた。

 現代日本は情報へのアクセス自体は容易になったが、基礎的な読解力がないと必要な情報へアクセスすることができず、すべての知的活動が困難になる。この提起はよかった。これがこうなって結果こう、という三段の流れを随所に用いて、それこそ「バカでも分かる」表現でわかりやすく伝えていた。言葉選びの妙だろう。

 ただ政策がよくなかった。もしかしたら弁士も自覚しているのかもしれない。この点に関しては慶應日吉と早稲田の方向から色々と感想が聞こえてきた。もうやってる、増やすにしてもリソースがない、個別に当たったほうが効率的だ、などなど。支援をフロー化するという意味でドリルなどの教材を改良するというのは方策としてアリだろうけど、あんまり効果がありそうに見えなかったし、それに全体に統一してするという弁士の政策ではコストが過大になりすぎる課題があるように感じた・・・。

 僕個人の感想としては、機能的非識字の人を学習性無気力に陥らせない工夫が何より大事だと思った。と、ここまで書いて、もしかしたらこれに一番効くのが弁士の言うドリルだったり・・・? という気になっている。

 余談だけど、この大会が終わってから「機能的非識字」ってワードが界隈でブチバズりを見せていてちょっと面白い。弁論大会が終わるとみんな何を話していたかなんてあまり考えなくなるものだけど、この問題に関しては抜きん出て身近な問題であるだけに、結構な人数が生活の中で意識に置いているようだった。國學院の常会活動(毎週水曜日の14:30-17:40に実施中! 同大学他大学問わず見学希望者は是非kokugakuin_bアットyahoo.co.jpまで!)でも話題に上がったくらい、この弁論が残したインパクトは大きいものがあったように思う。拓殖大総長杯のブログにも書いたけど、問題に対して聴衆を引き込ませることを弁論のゴールとするなら、君は一定の成功を収めたように感じる。いい弁論でした。

 

第五弁士 中央大学君の名は。」(優勝)

 分かりやすい弁論だった。

 国がDNAを一元管理して、真の親子関係がどこにあるかを見られるようにすることで無戸籍者をなくす、という弁論だった、という風に僕は解釈した。つまり、日本人のDNAデータはみな、国のサーバーか何かに保存され、参照することが可能になる、と、こういうことだと思う。

 遺伝子というのは、その人が何者であるのかを暴く非常に重要な個人情報だ。そして暴かれるものは不都合なものが多い。ルーツであったり、罹りやすい病気であったり、とにかく努力してもどうすることもできないようなものを、無遠慮にポンポンと提示してくる。でも自分のことを自分が感知できていないということほど気持ち悪いことはなくて、だからこそ遺伝子検査がブームになったりしているのだけど。

 自分で調べて自分で納得する分にはいい。ある意味で自己理解のひとつの形のように思う。ただしこれは「他人が絶対に関知できない」という、極限のデータ管理によってのみ成立するものに思う。罹りやすい病気が公になってしまえば、疾病保険なんかには入れなくなると思う。婚姻も困難になるだろう。何よりこれらが暴くのは「自分の努力ではどうにもできない」ことでしかないので、遺伝子検査が当たり前になって血が価値のウェイトを占め始める世界になってしまうと、それこそ第二弁士が危惧した「生まれによるナショナリズム」の隆盛に拍車をかけてしまう。果たしてこれは本当にいいことなのだろうか。

 遺伝子検査自体が、僕には奨励されるべきでないことのように思う。知りたい人だけがこっそりと知ればよいのだけど、他人に検査させてる時点で完全に秘匿されたパーソナルデータとはいいがたい部分がある。しかも弁士の主張によれば、これから生まれてくる新生児の遺伝子情報とその親の遺伝子情報をセットで国に提出させるべきらしい。これは、いくらなんでもあんまりに怖くないか。多分弁士の倫理観と僕の倫理観にはかなりの距離があるのだろうな、と思ってしまった。

 そしてその怖さが、ズンズンと遠慮なく入ってくる。これはひとえに弁士の説明と説得がわかりやすく、プロットごとに聞いてほしいことを特にピックアップすることに成功していて、それを簡潔な言葉でズドン、ズドンと打ち込んできたからだ。見事だ。構成と声調に関しては本当によかった。

 もしかしら弁士は、指紋鑑定くらいのノリで遺伝子検査を奨励しようとしているのかもしれない。審査員も同様の感覚で受け取っていたのかもしれない。君の無戸籍者問題の提起があまりにも上手で、問題の深刻さが広く共有されたから、この政策は受け入れられたのかもしれない。今回は全体を通して、どれだけ聴衆の説得に成功しているかに重きを置いた大会だった。その中で君は優勝カップを手にした。そしてそれは、僕には拓殖大学総長杯で慶應日吉の弁士が優勝したのと同じ構図に見えた。その彼が今回の大会でどうなったかを、君はよく知っているはずだ。

 ・・・と、ここまで書いておいてアレだけど、君が優勝したのも実力があったのも確かなので、もしかしたらただの杞憂なのかもしれない。今後とも頑張ってください。

 

第六弁士 明治大学「知らなきゃ損よ!」

 高松審査員が「野次に負けずに頑張って欲しかった」って言っていたのは多分君のことだと思う。僕は「がんばれ!!」って思いながら聞いていた。

 肩の力が入っていたように思う。声の速度が速まったり遅くなったり、強弱が不安定だったり。でも金融リテラシー教育の重要性についてちゃんとエビデンスをつけられていたし、数字やグラフを用いて主張に説得力を持たせようと努力していたのはよかった。何より、レギュレーションを生かして寸劇を展開したのは面白かった。効果的だったかはともかく、聴衆の興味をバッチリ引き込んでいた。終盤にかけて野次のボルテージが上がったのも、君の発表を聴衆がちゃんと聞きこんでいた証左であるように思う。

 政策だけど、テレビで流すってのはどうなんだろうと思った。教育にコマを設けるってのもちょっと乱暴だったけど、国の政策で取り組む手段としてテレビを使ってしまうと、実現可能性に急に疑問符がつく。NHKは公共放送で、政策を強要するわけにはいかないし、民放の枠を買い切るのにも、それがCMでもない限りメディア間の公平性がうまく保たれるのか分からない。何より芸能人を起用して~ってくだりが少し危うかった。というより、目論見が甘い気がした。

 高齢者の金融詐欺は、老衰による判断力低下が原因であって、リテラシーの欠如ではない、とはうちの部員の弁だけど、金融リテラシーっていうデカいテーマに対して、弁士は多角的に捉え切れていないように感じた。風呂敷を持て余しているようで残念だったのだけど、切り込み方がしっかりしていただけで余計に惜しく感じた。料理の仕方によっては十分にトップを狙えたような、そんな弁論だった。

 

第七弁士 法政大学「始まりが大事」

 声がデカい! めっっっっちゃデカい! 元気なのは大変結構だけど、声がデカいのにマイクが近い! 質疑までずっと声がデカかった。やばい。発表終わってからも耳が「おわーーー」って感じだった。だからどうってのではないのだけど。

 声調がキツすぎた。ちょっと大げさに感じた。緩急が付けすぎるのもどうなんだろうって感じた。これは弁士に対する注意というよりは、弁論において正しい声調ってどこにあるんだろうって、個人的に考えるきっかけになった。声調って、聴衆が聞きやすいように、もっと言えば聴衆に論点を明確に伝えて「聞くヒント」を与えるツールのように思っている。あくまで聞きやすいものを目指すべきであって、演出過多になるのは弁論に対するノイズが増してしまってよくないように思った。これは第九弁士の弁論にも感じたことなのだけど。

 認知能力・被認知能力は、幼少期に集団生活を送らないと身に着けられない、だから幼保無償化をさらに先鋭化させて、幼児教育への国の支援を拡大させ、更には実態を監視する機関を作るべし、という弁論だった。弁士の言っていたことは多分本当で、質の高い集団生活を送らせないと人間は社会性を体得できないのだろうな、というのは僕だって生活の中で実感しているところだ。でも弁士の志向する幼児教育の「質」がフワフワしているのと対照的に、出てきた政策が「国家による幼保の監視」だったので、言っていることが思想統制じみていてちょっと怖かった。ソフトな問題にハードな解決策を充てる気持ち悪さってのがあって、僕が聞きながら感じた違和感の根っこもここにあるんだと思う。

 そもそも、保育園や幼稚園って託児所の延長であって、たいていの保護者は教育の要素をそこまで期待していないように感じる。国の税金を投じる以上は国民の要請がないといけない気がするけど、果たして大衆はそこまで考えて子供を保育施設に預けているんだろうか。

 保育士を国が監視するってのもちょっと怖いし、保育園をランク付けして公開するのも健全な運営のように思えなかった。弁士は休職中の保育士を復帰させたいようだったけど、そんなことをされては復帰したいと思う保育士はますます減りそう。保育士の給料を上げるために予算をつけろとも言っていたけど、監視組織の運営でめっちゃ金がかかりそうなのに、果たして保育士の給料まで回せるお金が残るのかどうかも分からなかった。

 僕はディストピアみを感じてしまったけど、まあ弁士がその政策で納得できるんなら、ひとつの考え方としてはありなのかしら、なんて考えながら聞いていた。やりすぎ気味の声調も、あとは抑えればちょうどよくなりそうというものだったので、練習を重ねてうまく調節すれば割とすぐ聞きやすいレベルにまで落とし込めるのでは、と感じた。

 

第八弁士 慶應義塾大学「お前は誰だ?」

 第五弁士とまさかのタイトル被り。でもそれは問題じゃないな。

 大会の前に、僕は君の家に遊びに行った。そこで君は、次の大会でこんな弁論をしようと思う、と教えてくれた。

 そのプロットが、今回の大会で使われた。君の口から案を聞いたときは、とても面白いと思った。聴衆を説得するのと異性を口説き落とすことの類似性について、どちらも経験豊富な君ならではの視点でどんどん論証していって、余った時間で「ならどうすればいいか」を並べていく。どれくらいの規模感で話をするかは、当日の観衆のボルテージと審査員の具合によって調整する。君みたいなライブ型弁論の最大の利点を最大限引き出すテーマで、君は手ごたえを感じているようだった。

 ただライブ型弁論には既知の脆弱性がいくつもある。まずは体調。君は前日夜に後輩二人を家に泊めたと言っていた。ライブ型はとにかく頭がフルに回せるコンディションで挑まないとうまくいかないと思う。声の具合もそんなによくないようだった。次に冷静さ。審査員に「調子に乗っている」と暴かれていたけれど、実際君は前回大会で優勝していて気の緩みがあったのかもしれない。それを一番感じたのが、昼休憩を過ぎても「まだ何を喋るかちゃんと決めてない」と青くなっていた姿を見たときだった。本人じゃないのにベラベラ書いてはいけないだろうから慎むけど、君のやり方でプロットを洗練していくのなら、ちゃんと時間を積んで思考・訓練を積まないといけないわけで、演台に上がる寸前まで固まり切ってなかったということは、即ちかける時間が足りなかったってことなんだろう。申し訳ないけど、ここに関しては君の慣れと慢心が原因になっている気がしてしまった。

 だた僕は、あの弁論が完全に失敗だったとは思っていない。0か1かの極端な弁論をする君ではあるけれど、あの弁論で解決したかったものはハッキリしていたし、問題提起が聴衆である弁論部会員へ訴えるものだったから、モノとしてはちゃんと成立していた。審査委員長は「街頭で通用する弁論の作り方を教えるなら、その弁論自体が街頭で通用するものでないと」みたいなことを言っていたけど、その指摘は少しズレていた気がする。市井の人々に雄弁のコツを教える、みたいな体裁を取るか、そこに寄せてるかしていれば、評価がまるで変わっていたかもしれない、って余地はあるけれど。

 このことに関しては321くんが記事を書いている。多分君は読んでいるだろうけど念の為貼っておきます。

 Twitterであんまりにもしょげているようだったから一応書いておくけど、別にこのことで君が必要以上に悔しがる必要はないと思うし、審査員の相性というよりかは、技術的なミスが重なって悪い部分がデカく見えただけのことのような気がするので、これに懲りないで頑張って欲しいなあと。

 ちょっと休んだほうがいいとは思うけど、君が今いる状態はかなり特殊で、僕にはもうじきそれが変わりそうな予感がしているのです。時間がないのは僕もそうなのだけど。

 

第九弁士 中央大学「自分の人生」(準優勝)

 テーマの緊急性の高さと原稿の迫真性は出場弁士の中でも随一。審査員ウケはよさそうだなあと思って聞いていたら本当に準優勝に収まってしまった。おめでとうございます。

 レセプションの時に本人には直接伝えたのだけど、僕はこの弁論と、それがウケていたこの大会に、ちょっとした危惧を感じていた。今から同じことを書くつもりでいる。これは決して説教とかではなく、弁論界隈全体、というか言葉を扱う人々全般に言えることとして問題提起したいので、ちょっと文量を取って書きたい。

 彼女は 強い言葉 を多く使っていたように思う。彼女の原稿が手元にないから例示するのがちょっと難しいのだけど、ここでいう強い言葉ってのは例えば

  • 「とても」「かなり」などの、スタンダードな強調の多用
  • 「なんと」「しかも」「さらに」などの、前に扱った問題の深刻さに上掛けして後ろの言葉を強調する接続の多用
  • 序盤で「かわいそうさ」をじっくり強調して「かわいそう度」を高めた属性(を指すワード)の中盤終盤での多用(今回は「ヤングケアラー」)
  • 「~できないのはもちろんのこと~できない」「当然~できない」「(もちろん)~できていない」などの、ひとつの可能性を否定する言葉の多用
  • 「破綻」「崩壊」などの脂っこい言葉の多用
  • 否定の枕に「未来ある子供」「将来のある子供」を使う

がある。

 これらを多用すると何が問題か。色々あるだろうけど、特に弁論で致命的なのは、事例自体ではなく属性の色が濃く出すぎて問題の焦点がボケることだ。

 強い言葉を書き並べると文章の抽象度が上がる。抽象度が上がると聞き手は問題に入り込めなくなる。属性の「かわいそうさ」に共鳴・同情して、一応の点数を稼ぐことはできる。かわいそうな人々を救いたいと熱く訴えれば、聴衆は弁士の誠実さを感じることができよう。でもそれは、弁士が「かわいそうな人々」を明示するからこそ、聴衆も「なるほど、彼らはかわいそうだ」と思うのであって、聴衆が問題自体を思考して同情に至るプロセスを奪ってしまうという問題を引き起こす。250+350という問題を投げて600という答えに至らせなければならないところを、弁士がいきなり「250+350は600です、是非覚えて帰ってください」なんて言ったら、その時に明示した個別具体的な例にしか聴衆は対応できない。そういう弁論が果たして問題解決の役に立つ提起になっていると言えるのだろうか?

 聴衆に問題から同情に至るまでのプロセスを会得させないと、聴衆が現場に鉢合わせたときの融通が効かず、せっかく「かわいそうだ」と思わせられてもそれが役に立たないのではないか、という予感がする。

 ただ、弁士がハッキリと「かわいそう」言ってしまったほうが、聴衆は弁士の提起に「着いて」いきやすい。心象もいいだろうし、点数もよくなるだろう。でもそれだけだ。本来「いい弁論」とは、少なくとも聴衆に事例について入り込むよう説得を行い、弁士の問題意識に誘導するものであるように僕は考えている。あくまで誘導であって、結論を押し付けるものになってはいけない。この弁士に限らず、最近僕が聞いた弁論だと、どちらかというと問題に絡めた『属性』をプッシュして提示するものが多いように感じる。特に中央大学の弁士だとこの傾向が強い・・・ような気がする。ならお前はできるのか!? って言われたら弱いのだけど、この弁士は意識的に問題の抽象度を上げているような感じがして、言葉を選ばずに書けば薄気味悪いものを感じてしまった。

 抽象度があがると起こる問題はまだある。弁士が事例自体に本当に同情しているのかが分からなくなるのだ。

 ストレートな言葉でなくとも、あまりに弁士が問題の被害者について「かわいそうだ」「ひどいことだ」と強調を重ね続けると、不思議と事例がペラく聞こえるようになる。すると今度は、弁士は本当に被害者に同情しているのだろうか、という疑念が湧き始める。僕は第九弁士の弁論を聞いていてそう感じて、どうしてそう感じるのかをレセプションまで考えたのだけど、そのレセプションでも直接伝えたように、多分それは言っていることに自信がないように感じるからなんだと思う。

 問題自体が深刻だと受け手にちゃんと伝わるものなら、そのままオーディエンスに出して素材の味を堪能してもらえばいい。良質な昆布を丁寧に煮出して飲ませれば、なるほど力強い昆布だと分かってもらえるはずだ。しかしテーマに対して自信がないと、ここに強い言葉を加えたくなる。カツオだしを混ぜてみる。醤油、醸造アルコール、塩なんかを足してみる。するとどうだろう。めんつゆではあるけれど、昆布・・・?とはならないか。

 混ぜものをした調味料を出されて、まあそちらのほうが旨味が強いということはあっても、それで弁士は昆布の達人だと感心する人はいないと思う。問題提起の抽象度が上がると、問題と弁士との間に距離を感じるようになる。そんなんだと質疑応答の時に「弁士はそうしてこの問題を取り上げようと思ったのですか?」なんて質問が飛んでくる。というか、聴衆はそういう質問を投げざるを得なくなる。被害者に同情してくれと訴えながら、弁士自身が被害者と距離を取ってるように見えるんだもの。

 Slackの実況スレには、君のところで

 本人は普通だと思ってるのに外野が「嗚呼!可哀想に!助けてあげなければ!」ってなるの西洋の香りがするな

って指摘が入ってた。これは僕も思った。西欧の人権活動家に我々が胡散臭さを感じるのと同じようなレベルで、僕はこの弁論に違和感を持ったのかもしれない。

 声調は上手でした。途中からテンションが上がったのか、ポップノイズと息切れするような音がやたらマイクに拾われていたけれど、技術的にはとても些細なミスなので、練習すればどうにかなります。これも直接お伝えしたことではあるけれど、もし他の大会に出られる機会があるのなら、ここだけ意識すれば声調はグッとよくなります。裏を返せば、他の部分はどこも素晴らしいものがありました。次回作に期待しています。

 

 

 

 

 

 僕たちは何のために弁論をやっているんだろう。

 弁論をすることで何を起こせると期待しているんだろう。

 もしかしたら就活の為とか、見栄の為にやってる人もいるかもしれない。その人たちには申し訳ないけど、そうじゃない弁士は、この社会はクソで、でもどうにかしたくて、どうにかしないと居場所はないし息は詰まるし、だから原稿を書いて声調をやって、わざわざ窮屈なスーツなんか着て演台に立って針のむしろになりにいくんだと思う。って、僕がそう思ってるからこう書いてるだけであって、違ってたらごめんなさい。

 慶應日吉が全体講評でボコボコにされて、バカにされたようで僕は悔しかった。その前にも、明治大学が奇抜なスタイルを展開して、滑った感じになってるところを呆然と見ていた。

 与えられた場所で咲くことだけが弁論じゃない。僕たちは僕たちの感じる閉塞感を打倒しないといけない。今回の大会は、そんな気概を持った弁士が多く登壇していた。骨のあるやつが多く集まった。僕はこういう大会に立ち会えて嬉しかった。けれども審査員はそれを良しよせず、オールドスタイルの弁士が順当に賞を取った。

 高松審査員の講評は、彼らの敗因をハッキリと示していた。新しいことをしようとするなら、なぜ新しいことをしないといけないのか、理由と説得力がなければいけない。結局新しいことってのも、基礎的なものをちゃんと積み重ねて、そこにアクセントで加えるものでないといけない。エビデンスを積んで、演練を積んで、それが聴衆にとって聞きやすく、緊迫していて、迫真なものでないといけない。この大会は僕たちに、そういう多くの気付きを恵んでくれた。

 僕は「強い言葉」について否定的な長文をツラツラと書いた。強い言葉は添える程度に、それもタイミングがバッチリ決まっていれば、これ以上ない強力な武器になる。何事もやりすぎはよくなくて、ちょうどいいところを探らないといけない。そのちょうどいいところを探すのがめちゃくちゃ大変だから、ついつい奇抜な政策を打ったり、パフォーマンスに寄り気味になったりするけれど、多分そういうものが特に求められるような場所はどこにもなくて、どこまでもバランスを探りながら繰り返し試行するしかないんだと思う。

 社会はそう簡単には変えられない。だからこそ、社会を変えようと叫ぶことは、こんなにも楽しいのだ。僕も負けてはいられない。明治の鈴木くんにもケツを叩かれたことだし、いよいよマジで頑張らないといけない。あと何日何年とないはずの時間で、僕にできる精一杯のことをしないといけない。切羽詰まったライブ感に急き立てられて、僕は明日も原稿を書くのだろう。次の大会の締日がもう目前に迫っている。