帰りの電車の中で、僕はパソコンを打ち込んでいた。東京大学総長杯が年末に控えている。その原稿の締め切りが、もうちょっと先に迫っている。早々と切り替えていかないと、来週はOB会、再来週はもう桜門杯が待っている。足を止めてウダウダ言っている場合ではないのだ。
しんどいと思って生きている。
こんなこと、演台で言ったら「誰だってそうだろ!」と野次が飛んできそうだ。
小中高浪と散々な目に遭った。家庭環境のせいでもあるだろうし、学校に恵まれなかったこともあったかもしれない。あるいは僕の生来の性格や、持って生まれた病気や障害に起因するものかもしれない。
実際に不幸だった時期はそれが不幸だと思っていなかったからなんとかなったけど、大學に来て、異様な空間で異様なことをしていたのだと悟った。そして家に帰ると異様の続きに付き合わなくてはいけない。家を出たいと言い続けてそのための具体的な行動もしてきた。友人を付き合わせた。まだ僕は諦めていないけれど、結局引っ越しは頓挫しそうになっている。異様な空間に僕を引き止めたい人たちがいて、僕が自由になろうとするのを妨害してくる。
ここ二週間、ずっと死ぬことが救済にしか見えない。夏休みに将来に絶望するような出来事があった。現状の生活は苦しい。生きることを続けるメリットがおよそ分からない。僕が死ぬことを不幸に思うと言ってくれてる人を悲しませたくないから生きている、というだけの人間になりかけているし、じゃあそうするコストと自分を救済してやりたい気持ちを天秤にかけてしまった時、どちらに傾くかは目に見えているだけ、天秤にかけるタイミングを後ろにずらし続けることに腐心する、歪んだ生活を送る羽目になってしまった。
この「羽目」という単語を原稿中に盛り込んでよいかどうか、岩崎くんと話したっけな。
今回の大会には國學院大學辯論部を代表して、副幹事長の岩崎くんに「知識の源泉」という演題で出てもらった。
彼が原稿を書いているのを夏合宿で見ていた。僕はほとんど彼の助けにはなれなかったのだけど、当日には立派な原稿を携えて会場に来てくれた。
演練を積みたかった。そうしていればどういう結果になっていたかはいよいよ分からなかっただろう。僕には確かに手応えがあった。彼は立派に自分の弁論をした。
今回の大会で一番印象深かったのは、他にいた聴衆も概ね同様だろうけど、とにかく審査員がキレていたことだ。
全体講評にもそれがよく表れていた。
「高校2年の偏差値50が聞いて理解できることを言え。」
「他に分かりやすい説明が出来るところを、小難しい言葉と理論を使って複雑に著して『頭がいい風』になろうとする奴ほど頭が悪い。」
「悪習に染まるな。自分に入るダメージを減らしたいからと質疑で弁論中の自分の原稿を繰り返し引くな。聞いたことを前提に質問しているのに、躱すようなことを言うのは無礼だ。」
「弁論大会だろうと劇だろうと歌だろうと、自己表現の手段を取る以上は、自分が何を言いたいのかを誠心誠意説かないと相手は納得も共感もできない。それがないと人は動いてくれない。君たちは人を動かしたいんだろう。人間を動かすのはとんでもなく難しいぞ。聴衆の一人ひとりを高いところから納得させるのは非常に難しいぞ。君たちはそれを安易に考えてるだろう。」
「自分自身を語って多くが理解してくれるのが一番目指すべきこと。誰でも話せるようなことを誰が聞いても分からないように話すのが最悪だ。自分自身の問題意識を継続して持って、それの解決の為に努力をするのが大事だ。自分が今まで生きてきた中で悩んできたことを突き詰めて考えることをしないと、ここで他人に対して話すことがない。」
「就活で君たち負けるよ。ラグビーばっかりやってきた連中に負けるよ。言葉から肉体が感じられない。自分をぶつけてないだろ。当事者意識がないから聴衆を引き込めない、納得させられない、誰も動かせない。そんな弁論やっててもしょうがないだろ。」
「物事を多面的に見てリアルに捉えてください。小さくまとまらないでいろいろなことをしてください。いろいろな人に会って、その中で自分の形を作ってください。見てきたものを繋げていけば表現できるもの、表現すべきものが生まれる。学生だから持てるようになる視点があるはずなので、それを得て弁論に生かして欲しいです。」
「本論に入るまでが長すぎる。スッと入ってください。中身が大事です。」
「データを弄して理想を説くのは誰でも出来る。生の声を原稿に混ぜてください。現場に行って取材をしてください。当事者の話をよく聞いてください。弁論は論文じゃありません。何を伝えるかも大事だけど、どう伝えるかを考えてください。その答えが現場にあります。」
閉会式で下川先生が10分にも渡って出場弁士を罵倒した時、あの場にいた大半が血の気が引くような思いで聞いていただろう。下川先生に反論できる弁論ができたのは、あの会場だと優勝した慶應の井出くんしかいなかっただろうと思う。
僕も身につまされる思いであれを聞いていた。僕は春秋杯で、自分のプライドが侵されているという当事者意識を持って演台に立っていたのだけど、お前の弁論は独りよがりだと散々に言われた。問題に対して距離のある弁論をすると冷たくなるし、問題に自分が近すぎると聴衆を置いてけぼりにさせてしまう。その間を取るのがいい弁論で、社会に出てから誰かに物を言う時は、必ずこれができていないといけないように思う。実際に誠意があるかどうかはさておき、誠意を感じさせる伝え方とはそういうものなのだろう。
言葉なんてのは手段であって、目的ではないのだ。それが念頭にないと、言葉をうまく使いこなすのは難しい。
第一弁士 拓殖大学「ケンタウロス」
僕はこの弁論が一番好きだったなあ。好きか嫌いかで言ったらというだけの話ではあるのだけど。
競馬が好きだ。生きがいだ。でも生で見たのは一回だけで、普段はネットで過去の動画を見たり、テレビで中継を見たりしている。馬券は買ったことがないし、今後も買うつもりはない。そんな自分を彼は「競馬ファン」だと思っている。
君は競馬ファンなのだろうか。僕には分からない。審査員からも一体君はなんなんだと言われていたと思う。僕もそう思う。でもそんな君の弁論が好きだった。問題に対する入れ込み具合が半端ではなかったし、君の弁論は切羽詰まっていた。あまりにも悲痛だった。
僕は馬の権利を守りたいのなら、競馬っていうシステムに収益を依存している構造をどうにかしないといけないように思う。人間の儲けのためにセックスを強いられて早死にする名馬が多すぎる。君の言うとおりだ。でも残念ながらここは弁論大会の会場で、エビデンスを持たないものは殺される運命にあるのだ。
第二弁士 中央大学「薬も過ぎれば毒となる」(準優勝)
聞いてて一番「仕上がってる」弁論だった。
レセプションで本人に少し話したことなのだけど、僕は太陽光発電プラントの建設をやっている会社の株を持っていて、売り抜けに失敗してズルズルと保有を続けている。
僕も環境問題には興味があって以前少し調べていたのだけど、この弁論は面白く聞けた。特に政策が面白かった。色々調べて検討しているし、実現可能性も高いものだ。理論に隙がない。
でも典型的な、机の上で書かれた弁論であったように思う。じゃあどうすればいいんだ、と言われても僕は明確な答えを出せないのだけど、悪辣な事業者がいると「仮定」してどんどんと話を進めてしまうやり方には、強引さもそうだけど、政策を提示する側のある種の傲慢さを感じてしまった。
掴みに祖父の墓参りの話を引いていたけれど、抽象化させすぎに思う。事実を並べただけで全然情景が想像できなかった。太陽光プラントが資料の上の存在ではなく、実際にある問題として捉えさせるには、弁論中に実際の災害の事例を引いたりとかして、現実の生活が侵されるリスクがあることを丁寧に伝えたほうがよかったように思う。災害自体がまだそんなにないって事情は分かるのだけど、最悪仮定でも何か事例を作ってしまうとかして「ありえるケース」として伝えるとかするとよかったかもしれない。そういうちょっとの工夫だけでグッとよくなるような気がした。
第三弁士 明治大学「SYUZEN」
YOZANっていう、どちらかというと悪い方面で有名な会社があった。もう潰れてしまったのだけど、演題から勝手にその話でもするのかと思っていたら全然違った。まあいいや。
不勉強なのであれなんだけど、建設国債と別枠で修繕債を設けることで予算成立のプロセスが単純化されるって理屈がよく分からなかった。これに近い概念でもどこかの自治体で導入されているという話は聞かないし、スンナリいく話のようには聞こえなかったので、トントンとうまくいくみたいに話してるところに根拠が感じられなくて、そこが残念だった。
でも言ってることは正しいように思う。生活インフラとして国が面倒を見なきゃいけないものが、あと9年で一斉に寿命が来る。その保全や修築で手が回りきらなくなることは今からでも想像できることだし、それで死人が出た時に責任を取れる人間もいない。地元にそういう物件があって不安だという話をしていたし、当事者意識の有無でいうならかなり優位にあった弁論であったように思う。伝え方次第では入賞が見えていたはずなだけに、弁士の次回作に期待せずにはいられない。
第四弁士 國學院大學「知識の源泉」
今じゃないとできない弁論で最高だった。原稿のライブ感。
内容については今更ここに書くこともないでしょう。僕にも反省点が多いので、水曜日の反省会が待たれるところ。
第五弁士 明治大学「カナリア」
質疑でも言ったけれど、国が大きいプロジェクトをやってしまうと、その償還とか、関わった人間のメンツとかの為に、想定利用層に該当する人たちに動員をかけてしまう、というより半ば利用を強要するようなことが起こってしまう、というのは容易に想像できることで、それに対する答えを何も用意していないようだからもにょってしまった。
化学物質過敏症患者の為に国が廃村を買い上げて国営サナトリウムを作るというアイディアだけど、どうしてもハンセン病や結核の集団療養施設を考えてしまってネガティブな印象を持ってしまう。安楽死の議論の時にも少し出る問題なのだけど、そういう制度を整備してしまうと、自分が行きたくなくても生活の中で利用を勧められ続けたり、親族や周囲の人間から利用するように圧をかけられたりするものだと思う。病気に対して対処療法的な考えであるし、患者の尊厳についてあまり考慮されていないように思ってしまった。
途中で司会から「回答は端的にお願いします」と言われた時の「端的です!」に初々しさを感じてよかった。そういう気持ちを僕も大切にしていきたい。問題としてはかなり深刻であろうと思うので、彼が今後病気に対してどうアプローチしていくのかもちょっと気になるところ。僕にも出来ることがあるなら何か考えてみたいという気持ちになれたし、終わったあとに周囲の聴衆とざわざわ話をするくらいには問題が共有されていたので、問題に対して聴衆を引き込ませることを弁論のゴールとするなら、彼は一定の成功をしたと言ってよいのではないだろうか。
第六弁士 中央大学「フリーライダー」(第三位)
聞いてて分かりやすい弁論だった。問題を提起して、解決策を示して、それがコストに対して優位な威力を発揮する根拠を、前例を交えながら小気味よく解説していて、お手本のような弁論だった。
ネガティブなことを書くと、聞いたことのあるような話を繋げている印象だった。水村先生は途中でほとんど興味を失ってふんぞり返っているようだったけど、弁論経験のある人には好感触だったのではないだろうか。個別講評を見ていないので分からないけれども。
セキュリティに使うものを統一規格化してしまうと怖い。特に輸出入管理の為のホログラムシールなんて、使えるサイズも詰め込める情報量もたかが知れている。扱いも目視だろう。統一ラベルを大量印刷なんてしたら逆に偽物が作りやすくなる。シールを剥がして使いまわしたり、シール自体が流通する可能性だってある。質疑で言ったけれど、製品に貼って使うならシール自体を搬送することが必須で、そこには何者かに収奪されるリスクが伴うのだから、それ自体に価値が生まれそうなものにセキュリティを任せようとする考えはちょっと安易だなと思った。
井出くんに自己言及性について突っ込まれた時、偽物を掴まされたのが悔しくて!とわざとらしく言ってみせた度胸に感服した。器がデカい。ビッグになりそうな予感。
第七弁士 慶應義塾大学「最後の砦」(優勝)
君が輝ける場所はここにあったか・・・。
散々審査員との相性が云々と文句を垂れていた君が、一番「自分寄り」の審査員を引き当てたのがこの大会であったか。
原稿を持たずに話すことでライブ感を持たせる特異なスタイルで審査員の度肝を抜いた。といっても僕らは前にも春秋杯で見ているのだけど、あっちの大会がいい練習になったのではないか。テンポの取り方や話の組み立てが格段に良くなっていたように思う。
戦争を頭ごなしに否定する教育じゃなくて、なぜ戦争がいけないかを理解させることに重点を置く教育にすべきだ、という君の主張はもっともだ。戦争体験を伝えることが威力を発揮するのは、そのシチュエーションに自分が入り込める場面でだけだ。中東の戦争の悲惨さを子供に伝えても何の効果もないのと同じように、いかに当事者意識を持って戦争を捉えられるかが平和教育のキモであって、今の日本にはそれを考えようとする人がいない、という君の嘆きは切実なものであった。
君の作戦だったかは知らないけど、審査員との対話に質疑時間の大半を費やし、実質的に聴衆質問を潰したのには思わず笑ってしまった。君の最大の敵であるところの聴衆に対して質問する時間を物理的に与えなかった。言うなれば作戦勝ちなところもあるだろう。
その聴衆質問も、君はうまく料理していた。場数がモノを言う瞬間を見た。
弁論大会は楽しい。
やっている最中、向かっている最中は、ある種の無責任が許容される状態になる。政策について終わってからもネチネチ付き合う必要はない。ただその時に通用する「ビジョン」を練って、一定のロジックにそってそれを披露し、出来不出来を競う。大会を終えてからの処理がないから、大会で終わるタスクとして躊躇なく身を投じられる。
だから僕は早速、楽しくない生活に戻らなきゃいけなくなった。
日曜日はほとんど寝て過ごした。月曜日の午前三時にこれを打っている。明日は二限から授業がある。
僕のしんどさをインスタントにぼやかしてくれる弁論大会が終わって、放り出されて、再来週の大会のことを考えている。先延ばしが得意技の僕が、弁論大会にプライオリティを振って、死ぬこととの隙間にポンポンと投げ込んでいる。
やるんならただこなすだけじゃつまらない。次はもっとよくしよう、いい結果を出そうと思う。そのためのヒントがたくさん落ちている大会だった。僕自身、聞いていて色々と思うところがあったし、こうすればいいのにとか、これをしたかったんだよと悔しくなる場面があった。
そういう技術的な積み重ねの先に、僕の息苦しさを解く鍵があるんじゃないかと、淡い期待をしながら、また僕は仕込みに向かう。原稿を打つ。僕の生活はいつだって大会後で、大会前だ。