朝自慢

北朝鮮のアイドルと海産物について

そして僕らは夏へ

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 久々に花粉症の薬を飲んだ。今日は人と会う約束がある。

 外出をすることは逆賊のようである。家の中で営みを完結させることが、美徳を超して正義のように語られている。そして僕は逆賊になる予定がある。逆賊にならねばならぬほど、僕の精神状態は逼迫している。それはきっと、約束のある相手にとってもそうだろう。

 無責任なことを言う人が、この国の中枢に跋扈している。それは別に構わない。理想家がトップにいることはとても重要だ。誰かが理想を説かないことには、現状がよくなるということはない。何故わざわざ説かないといけないかというと、理想を唱えることがしばしば無責任に映るからだ。

 理想を叶えるにはリソースが必要だ。余裕とも言う。新しいことを始めたり、既存のものを作り変えようとするには、構築している隣で従来どおりの運用をしておく余裕が必要だ。

 今、他人の理想に付き合うだけの余力がある人が、どれくらいいるのだろう。僕にはない。全く、1ミリもない。

 

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 春である。まだ冷たいままの風に乗せられて、桜の花びらが我が家のベランダにも舞い込んでくる。ここ数日は家から出ることを許されず、花びらと出会って花びらと別れるだけの営みを、むりやり生活とかこつけていた。そしてこの営みは、僕にとっては案外と苦痛なようだ。

 自分の中の理想が、進展しない現状に対して、無力感としてぶっ刺さっている。日々を超高速で回転させつづけることで正気を麻痺させている浅島は困ってしまった。何かをしている状態じゃないと居心地の悪さが湧き上がってきて希死念慮に歯止めがかからなくなる。これではいけない。

 最近は英語の勉強とプログラミングの勉強をしている。法律の勉強もしないといけないけれど、最近はすっかりやる気が潰滅してしまった。作曲機材もホコリを被っているし、ギターも指運の練習くらいでしか触らなくなってきた。哲学の勉強をしようと思い立って、本を探したり調べたりしているうちにやる気がなくなって、結局やらない、というのをグルグル繰り返している。英語もプログラミングも普段なら必要な時くらいしか触らないので、まったく生活が逆になったようだ。

 感覚的には、浅島という人間のサブアカウントを作って、そっちを運用しているようだ。本垢は動かせないし動かす気になれないけれど、普段できない、やらないことなら別口で頑張れるって感じ。こうなれるのは貴重なことなので、醒めないうちに色々頑張ってみようと思う。

 

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 春である。人々は春を無碍に過ごしている。とてもよいことだ。春は選別の季節である。あらゆる物事が、くっついては離れる。そして夏は定着の季節である。秋にはまた選別が来て、冬にも物事は固着化を迎える。

 何故だろう。僕はこんなふうに考えている。例えば春は、色々な場面にチュートリアルが挟まる。年度の変わり目はそうでなくては困る。強制的に新しい環境に入ったり、隣で新しい環境になる人を迎えたりする。予期せぬことに遭遇するリスクが当然高まる。無自覚でも人々はそれに備えるのだろうか、全体的に警戒心を持つ人が多くなる気がする。

 夏はどうだろう。春のチュートリアルから、だんだんと本運用に変わっていく。作業に慣れればタスクが積まれる。リソースが減っていく。そして秋になる頃には、タスクが積まれた状態にも慣れるのでリソースが復活する。そして冬は、年末から年度末にかけて仕事の総ざらいがある。

 

 春を無碍にすることは、きたる夏の定着を遅延させる。しかし遅延させずとも夏を迎えることができる。

 笑顔の裏側を推察することができない「ASD」という障碍を持つ僕にとって、この非常にピリついている季節を回避できることは嬉しいわけであるが、そもそも笑顔の裏側を汲み取る必要があるのは、この時期が笑顔を振りまいていないといかんと、そういうモンだと決まっているからなのだ。人々は自分を売り込まなければいけない。売り込めないと夏にあぶれて、春に置いていかれてしまう。春というのは、春から離脱し夏へ向かうための好感度の争奪戦を行う、ヒジョーに殺伐とした季節なのだ。

 そして春が圧縮されるというのは、この殺伐を秒で済ませるために、世間が妥協を始めるということを意味している。厳密には、1件あたりの笑顔を精査する時間が減るということ。そうなれば自ずと、自分の笑顔に対しても手を抜くようになってくる。これは僕にとって非常にありがたいことだ。

 

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 出来ることなら『気づいたら俺はなんとなく夏だった』な状態がいいのだが、おそらく僅かでも春が設置されるだろう。その少しあとに夏が来る。
 理想を言っている暇は多分ない。僕たちは昨年に描いた理想を食いつぶすしかない

 2020年はとても空虚だろう。空虚であって欲しい。余裕がない僕にとって、余裕のある者の余裕讃歌が耳に障る。

 しょーもない生活を、しょーもなく営む。こんな日々自体はとっとと終わって欲しいけれども、春を圧縮し、せり出た冬を満喫するために、僕は戦犯にならない範囲でひっそりと人と会おうと思う。

 オッサンの夢が掃けたあとのまっさらな夏を、すくような思いで待ちわびている。