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北朝鮮のアイドルと海産物について

日本大学桜門杯弁論大会(24)の総括

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落花生はディズニーリゾート・X JAPANと並ぶ、千葉県民のアイデンティティである

 久しぶりにブログ書きま~す!! 思うところがいろいろあったので!

 実はこの間の春秋杯のときにブログを途中まで書いたんですが、書いてる最中に体力がなくなってお蔵になってます。だから大会総括(勝手に名乗ってるだけ)をポストするのは、本当に久々であろうと思います。

 執筆中に当ブログのアクセス数が一気に増えていて、ちょっと戸惑ったりもしましたが、以下のはあくまで僕の感想であって、決して権威があるものではないし、浅島に文句を言われたからと頭を抱える必要もないです。

 わざわざこんな予防線を引いているのは、草稿を書く前に頭を打ち付けてしまい、体調がよくないまま書いていたからです。こういうときは気分に引っ張られて悪い部分ばかりピックアップしがちだし、文章もネガティブに寄っているので、その点留意して欲しいです!

 以上、ここから先を書き終わって10時間したあとの浅島からのお知らせでした!

 ここから急にテンションが下がるから気をつけてね!

 

 


 

 

 今回の桜門杯は、昨年の大会が中止されたことにより、2年のブランクが空いての実施になった。恐らく今回大会の主要な実行委員は、初めての主催であるのと同時に、初めての桜門杯になったことだろう。

 会場が千葉と聞いた時は驚いたが、実際に行ってみると、運営はそつなくこなせていたし、混乱するようなこともなく、無事に大会を終えることが出来た。特に会場の変更によって3年生以上の会員にとっても未知の大会運営になったことだろうし、それでここまでのクオリティの大会を開けたというのは、頭の下がる思いだ。

 今回の大会は、僕にとっても初めてのことがあった。それは、後輩部員に演練を付けて大会に送り出すこと。実は僕のいる辯論部には、公式戦出場経験のある2,3回生がいない。そして数代ぶりに大会に出てくれたのが、今日の第三弁士であったわけだが、僕自身(部内大会の演練はあれど)公式戦に出る後輩に演練をつけるという経験がほぼ初めてであったので、新鮮なことも多かった。生きてきた年数とか、視点の位置とか、いろいろな「差」を埋めながら、ひとつの目標に向かって一緒に頑張っていくことは、とても大変だし、とても楽しい。

 後輩にも今回の大会を楽しかったと思っていて欲しいし、出来れば出場弁士全員が、弁論することの喜びを覚えて帰っていて欲しいな、と、思ったりしている。

 

 さて、閉会式にあった審査委員長の講評だが、全体を通してのものだと以下の通りであった。

「時代性をこんなに感じたことはありません。私のときはバブル真っ盛りでした。今回は貧困の話が多かった。」

「弁論が固かった。弁論にはユーモアが必要です。10分も緊張していると人は長いと感じます。YouTubeにある動画はほとんどが10分程度だそうです。」

「身近な問題もいいが、天下国家を論じて欲しかった。今回はそういう弁論が早稲田からしか出なかった。」

 

 いや~~~~そうなんよ、人間の集中力は僕らが考えてるほど長くは続かんのよ。

 YouTuberが10分くらいの動画ばかりを上げているのは、実は動画広告を増やせるか増やせないかの境がそこにあるからなんだけど、でも腕のあるYouTuberは10分の動画でもユーザーに通しで観させるようなテクニックを持っているわけで、これはよく検討しなければならない。

 たとえば、淡々と実験動画を上げたり、同じ調子で喋ってるだけの動画を上げてる人は、動画を飛ばし飛ばしで観られてしまい、うまく広告が貼れず、収益性が落ちる。しかしスターYouTuber達は、動画の中にくだらない小ネタや鉄板ネタを盛り込み、ダレそうな部分でもどうにか視聴者を引き留めようと工夫する。

 これは弁論にも応用できそうだ。掴みにユーモアを用いるのは当然必要なんだけど、エビデンスをツラツラ喋ることに終始せず、気持ちを挟んだり、ジョークを飛ばしてみたりして、聴衆の集中力を維持させることも、弁論にとって必要な技術だ。

 今大会の弁士は声調が総じてよく、あっこの弁士はいっぱい練習してそうだな~と思わせてくれる弁論ばかりだったが、原稿の部分でアラがあったり、アラが出ないように簡単に済ませていたりする傾向があって、ちょっと残念だった。声調がいいに越したことはないが「声調が良かったなぁ~」で終わってしまっては、大会で勝つことはできない。

 あと、天下国家を論じて欲しいというのは、随分前からどの大会でも言われていることで、毎回「そうなんよ~」とは思うけど、やっぱりなかなか出てこない。誰かやらないかな~と思うけど、やったらやったで「それを今やる意味ってあるんですか?」とか言われちゃうしな~、難しいんだよな~。

 

 

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お昼の蕎麦でも載せとくか

 以下、弁士ごとのレビューです。不都合あれば修正・削除など対応しますので、私のTwitterまでご連絡ください。

 

 

第一弁士 日本大学「自己責任論の克服と、 慈しみのある社会への変革に向けて」

審査委員長講評

感情は出てたけどデータがない
数字がないと説得力が生まれません

 第9弁士のところでも書くつもりだが、今後は弁論は聴衆を説得し、何らかの意識変化を促すもの、ということを意識して書いてみて欲しい。率直に、聞いていてしんどかった。表現や(言葉の)表情の節々から決めつけや思い込みが見られ、自分は高い所から無知な人々に説法してやっているのだという驕りが見られた。

 こういう態度が全くダメだとは言わない。適切に使うことで、弁論にスパイスを与える。しかしこれはあくまでスパイスでなければならない。

 弁論には緩急、アメとムチが必要である。辛辣なことを掻き立てて聴衆を不安にさせたのなら、最後に優しく救済の技法を教示しなければならない。あるいは甘やかすようなことを並べたあとに、ハッとするようなことを言って戒めて締めるのもいいかもしれない。

 弁士はどんどんと辛辣な言葉を並べ、聴衆を嘲り倒す。そして「お前ら~」と暴言を吐いたのち、ついに弁論が締めくくられた。もしかしたら弁士は「啓蒙的な態度」で弁論をやったつもりかもしれないが、聴衆にしてみれば「高飛車な態度」以上のものは感じられない。

 本当は褒めるべきところがどこかあるのだろうけれど、弁士には悪いが、僕は僕の個人的な感情によって、どうしても長所に目を向けることができないでいる。弁士は質疑の際、早稲田大学から「弁論に興じる人は恵まれているとバッサリ言ったが、この場に苦学生がいるかもしれないとは思い至らなかったか」と指摘され、「それは言葉の綾であり、傾向によって判断したのみ。少し揚げ足取りのように感じる。」と回答していた。

 当ブログの筆者は大学進学を親に反対され、現在に至るまで働きながら学業に励んでいる。僕のような存在は、きっと弁士の思っている以上にいる。それをバッサリと「揚げ足取り」と切り捨ててきたのは、どうしてもいただけない。

 どうしてもいただけない、のは、あくまで僕の感情の話である。だから今の僕は、彼の弁論の良し悪しを冷静に論じることができない。他の方のレビューに期待したいと思う。

 

※10/5 22:50追記

 指摘があり、当該弁士の弁論を録画で見返した。自分の中で彼の評価が著しく歪んでいたことが分かった。終盤や質疑のイメージに引っ張られてしまっていたが、分析には頷ける部分が多々あったし、言うほど説教的でもなかった。

 それに、そもそもこの弁論には僕のような人はターゲットに入っていなかったらしい。「弁論界隈にいる、自己責任論にあぐらをかいている人」を刺すことを目的とした弁論であった。

 このような書き方は反感を買うし、ともすれば(今回の私のような)ターゲットでない聴衆からの評価も下げかねない。実際に文句を言っている人もいた。しかし弁士はそのようなリスクを承知の上で、刺し違える覚悟でこの弁論を書いたのかもしれない。

 

 また、「皆様方」と持ち上げてから「お前ら」と突き落とす流れがあったことに気がついた。「少し運命が違えば~」でギアを一段回上げたのは(直前で拍手が入ったので不明だが)意図してやっていたのなら凄い。弁士は「聞かせたい部分」の演出について弁えている。こういう細やかな工夫は、何度も原稿を推敲したり、演練を繰り返したりする中で生まれてくるもので、弁士がよく考えながら弁論に向き合っていたことが伺える。

 僕はすっかり感情的になっていて、このような細やかな工夫に目がいかなかったが、実際のところこの弁論は、とても繊細に作られていた。

 

 全く指摘箇所がないわけではない。前回も書いたことだが、質疑がかなり雑であった。質疑を受けたら最初に「ご質問ありがとうございます」はマナーなので、次は是非意識して欲しい。

 声調も、かなり早口で淡々としていたし、時間も合っていなかったので、もう少し練習が必要だったかもしれない。

 

 聞き直したことで、弁士へのイメージがかなり変わりました。上のように粗雑な書き方をしてしまったことを申し訳なく思います。大変失礼いたしました。

 

第二弁士 明治大学「ヒト型汎用労働装置「日本人」」

審査委員長講評

弁論形式はとってもよかったし、体験談もよかった
ただ欧米と日本は何が違うのか、日本の企業風土の根源的なところを解析して
国力のデータを見て 日本はアメリカの1/4 中国の1/3 こういう説得力のあるデータがないとダメ
日本の国力でなにができるかを書いて

 声がめっちゃいい。声調がかなり荒かったが、持ち前の声質の良さでどうにかなっていた。

 タイトルがよく分からない。何かほかにやりようがあった気がする。

 弁士の問題意識には共感するものがあった。論点もよく整理されている。身振りによってアピールする努力も見られた。

 だから政策の雑さが目立っていて、ちょっと残念だった。ベーシックインカムの登場がかなり唐突だったし、ベーシックインカムでなければならない必然性を感じられなかった。こんな便利なものがありますよ~って紹介されても、ベーシックインカム自体が弁論界隈のみならず、社会のいろいろなところでこすられていて目新しさがない。

 会社員のPCを労働基準監督署が遠隔で監視しろというアイディアは、着眼点こそ面白いが、導入にあたってはかなり困難があるもので、もう少し丁寧に紹介してほしかった。

 弁士の挙げた問題意識に、弁士がうまく切り込めていない感じがした。弁士が挙げた具体例は、制度というよりも職場環境や構造の問題だった。しかも、労働時間の問題というよりも、ハラスメントという、かなり別質な問題を取り上げてしまったので、分析と政策のミスマッチが起きていた。

 テーマがテーマだけに、うまく料理すれば化けたのだろうが、いかんせん時間が足りなかったのだろう。初めて挑む弁論であれば致し方ないことであるし、着眼点の良さが随所に見られていたので、弁士の今後にかなり期待である。

 素質の良さで思った部分といえば、最後時間が足りなくて巻きで喋ったとき、きちんと聞き取れる程度にはペースを守れていたのと、超過した際に即座に原稿を修正して締めていたところに、瞬発力や対応力が光っていた。僕も見習いたいものである。

 

第三弁士 國學院大學「働きざかれない」

審査委員長講評

表情を工夫してください
スキルを数値化するのは並大抵じゃない
英語ができても、アメリカ人からなんの魅力が持たれない人がいる
そうじゃないのにモテる人もいる
これは数字にならない
頭で考えず、具体例を出すべきだった

 立論はリハーサルを超えたと思う。困難が多く、演練もかなり苦労していたが、出来ることはやったし、その成果がきちんと出ていたように思う。

 その場で判断することは、もう場数を踏むしかない。まずはお疲れ様と言いたい。次も期待しています。

 

第四弁士 東京大学「新・団体訴権」

審査委員長講評

緻密でよかった
政治家には安全保障や有事のことについて、超法規的措置を決定する仕事がある
その時にこの考え方は通用しない
ここに司法を噛ませようってのは難しい 頭でっかちになっていた

 いかにも東大型な声調であった。よく前を見て喋ってくれていたのは分かるけれど、少しおぼつかない部分があって、危うさを感じた。(それでも終始原稿ばかりを見ている弁士に比べたらマシである)

 discordがかなり「盛り上がっていた」ので、僕から何かを書くのは気が引けるが、やはり弁士の政策を採用することで裁判所のキャパシティが足りなくなることは目に見えており、そして弁士が市民団体を信用しすぎているような節があったので、実現可能性が微妙だなあと思わざるを得なかった。あと行政訴訟法27条の絡みとか。

 実況スレを引けば「無限に団体が出て来て無限に差し押さえ可能なのヤバすぎ」だし「プロ市民の食い扶持作り」のようにも見えてしまう。いくらでも作れる市民団体に与える裁量としては、あまりにも大きい。

 野次があったらかなり集中砲火を受けていたことが予想されるだけに、弁士にとっては今回大会のレギュレーションで助かった部分があるのではないか。弁士は最後の挨拶で「次」を匂わせていたが、ウルトラ待ってるので是非リベンジしてください。期待するー!

 

第五弁士 中央大学「耐える痛み、絶えない痛み」(優勝)

審査委員長講評

弁論の形として十分仕上がっていた
欲を言えば、財源をどうするか ユーモアを入れられた
高級な化粧品とかストッキングから税を取りましょうとか
そっからお金を回しましょうとか
視点を示してほしかった
数字大事だね

 「初心者が作る弁論」をきちんと完成させるとこうなるんだなあ、という弁論だった。完成度は高いが、やっていることのレベルは低かった。

 分析パートが聞いたことのある話ばかりで残念に思っていたら、よりによって政策まで聞いたことのある話だった。正直このへんの話しは擦られまくっている上、既出の政策が丁寧に紹介されていなかった(紹介が薄かった)ので、少し悲しかった。勉強が足りないか、(政策パートに向けて)意図的に隠していたかのどちらかであろうが、勉強が足りないなら弁士の問題意識を疑うし、意図的に隠していたなら「無知な聴衆」に対して無礼というものだ。

 そして何より、分析が長い。しかも冗長な箇所が多い。僕は最後列から見ていたが、聴衆の中には途中で飽きた人もちらほら。スマホを弄る人もいたし、PCの画面にツイッターを出している人もいた。疲れ始める時間だから仕方のない部分もあろうが、そこをどうにかするのも弁士の技量といえよう。実際、第六弁士のときの聴衆は明らかに弁論を聞いていた。

 あとこれは辞達所属の他の弁士にも言えることだが、声のバランスがおかしい。強弱の付け方がきまぐれすぎる。いきなり小さくなって、いきなり大きくなる。原稿をすでに知った上で演練をつける分には身構えられるだろうが、次に何がくるか全く分からない聴衆にとってみれば、ビックリしたりしなかったりを繰り返すわけで心臓に悪い。失礼なことを言うが、弁士の弁論を聞いている最中に「青鬼」をプレイしていたときのあの感覚がチラついていた。弁論はおっかなびっくりしながら聞かされるものではない。

 

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実際の上グラフはもっとギザギザしていてよいし、掴みより政策のほうが声を張っていても構わない

 別弁士へのレビューの繰り返しになるが、弁論は聴衆を説得し、何らかの意識変化を促すものであって、そのためには聴衆の胸にスッと入り込める語り口に工夫しなければならない。弁士は緩急をつけるのは上手だが、緩急の展開が早すぎた。なにもジェットコースターに乗ろうというのではない。技巧を凝らして演技派を気取る必要もない。魅せる声調ではあったかもしれないが、聞かせる声調ではなかった。

 もっとも、これは部会全体でそのような声調になっていることが多いのであって、弁士個人に原因を求めるのも酷な気がする。実際、上記の程度で言えば第8弁士のほうが強かった(酷かった)ので、第5弁士はそこまで気にしなくてもいいかもしれない。

 

 会の話は一旦置いておいて、弁論の中身に戻る。なんでもかんでも教育現場のせいにしてしまうのはいただけないが、弁士の気持ちは分かる。ただ、多くの聴衆には安直に映っていたようだった。

 個人的には、質疑応答でいきなりピル助成の話が出てきたのには驚いた。これは想定質疑に組み込んでいたのかしら? 分からないけれど、こういうのは立論の中に組み込んでおくべきだし、質疑でいきなり言い出すのは不誠実に感じた。ただ、咄嗟に言ってしまっただけのような気もする。

 声調のことを色々書いたが、裏を返せば散々練習したから出来ていたわけで、弁士の努力は様々な場所から垣間見ることができた。原稿も原稿としてまとまりのあるもので、かなり推敲があったのだろう。散々文句を書いたけれど、単純にクオリティが全体を通して高く、出来栄えもいつかのSGTRK弁士を彷彿とさせるものがあり、納得の連覇であった。おめでとう。

 

第六弁士 早稲田大学
廃県置州」(準優勝)

審査委員長講評

なぜ今道州制か分からなかった
果敢に政治的な問題に立ち向かっていったのはよかった
日本には昔幕藩体制があって、アメリカの州みたいなことをやってた
日本でそれをやって採算が見合うのか
聴衆にクエスチョンマークが浮かばないようにして欲しい

 実は僕はこっちが優勝だと思っていた。特に声調は一番良かった。何も言うことがない。相当練習したのだろう。終始堂々としていたのも好感が持てた。

 政策が若干フワフワしていて、もっと具体性が欲しかった。あとお金の部分で見積もりが甘いというか、詰めが甘いと感じる部分があった。が、僕が弁士の立場だったらうまく料理できている気がしないし、弁士はよくやっていたと思う。

 分析もしっかりしていたし、質疑も狼狽えることなくこなしていた。多くのことがハイレベルに仕上がっていた。結果は準優勝だったが、胸を張って欲しい。おめでとう。

 

第七弁士 法政大学「先ず隗より始めよ」(審査員特別賞)

審査委員長講評

人柄が出てた きっといい先生になれる なってほしい
ぜひその夢を叶えてください

 声調が第六弁士の次によかった。本当によかった。第六弁士はある程度「いい声」を持っていて、それをうまく使いこなせていた。一方で第七弁士は、本当によく努力して声調を鍛えたのだなと感じた。例えば第二弁士は「いい声」を割とそのままの状態で出していた(ように見えた)が、仮に聞き取りやすさで並ぶにしても、第七弁士と第二弁士の評価には雲泥の差がある。第二弁士を貶すつもりは毛頭ないが、第七弁士の読み上げは丁寧で、心がこもっていて、聞いていて気持ちのいいものであった。もし彼のこの声調が日頃の演練の賜物であったのなら、もうそれだけで彼が法政弁論部に入った意味があったというものであろう。

 さて、衝撃的な告白から始まった弁論だが、それがただ「掴み」として消化されて終わるのではなく、弁論で描かれる世界観のコアへと昇華されていて、見事だった。分析から政策の流れも綺麗だったし、この弁論の全体を通底しているポリシーがとても固いように感じた。

 不満もいくつかある。まず演題が意味不明である。一応弁論中でフォローされていたが、正直この演題が適当だったとは思えない。言うほど隗か?

 弁士の政策は理想っちゃ理想だが現実味がない。特に二点目の政策は突っ込みどころが多かった。質疑応答も若干不安定だった。

 それと、これは弁士のみの問題ではないが、野次禁止の大会で掛け声をしていたのはいただけない。途中で拍手が起きていたところも、法政の座席から始まっていたように見えたし、会場を操作して「あったかく」しているようなところが見えて、ちょっと嫌だった。そうやって「あったかく」なっても、それは弁士の力によるものではない。

 と、色々書いたが、この弁士の弁論は本当に出来が良かった。ますます精進していただいて、来年ウチの主催大会に出てくれたりしたら・・・嬉しいなあ・・・

 

第八弁士 中央大学「プルタブを引くたびに」

審査委員長講評

実は点数がよかった
調査によるとって言ったときに、その調査の主体がなんだったのか、どこだったのかを入れてほしかった
発声や身振り手振りは素晴らしい 女優になってほしいくらい
予算財源の話も少しは入れてほしかった

 パンフレットを見たとき、演題が杏里の「オリビアを聴きながら」に似ているな~と思った。でも弁士はそんなこと全く意識してなかっただろうな。

 普通は全く使わない手ではあるけれど、聞いている人のよく知ってる単語や問題意識に似せて何かを語る(無論、内容は伝えたいものに寄せる)ことで、説得されることへの心理的ハードルを下げるという、サブリミナル的な戦法が実はある。ちょうど審査員の皆さんはこの曲が流行った頃くらいの世代であろうし、弁士のキレ方(と、どことなく漂っていた諦念?)もこの曲を彷彿とさせるものがあったので、ちょっと驚いた。計算ずくでやってたとしたら大したものだけど、まさかね・・・?

 

 閑話休題。思ったことは色々あるけれど、特に声調はもう少しどうにかならなかったのだろうか。単純に音量が大きくて何を言ってるのか分からなかったけど、ものすごい緩急をつけて頻繁に小さくなったり大きくなったりと揺れていたので、マイクボリュームを下げたところで聞こえない部分が出てきてダメだった可能性もある。

 アルコール依存症の身内がいる(いた)者としては、結構当事者意識を持って聞けた弁論だったが、いかんせん音が大きすぎる。僕は突然大きな音を鳴らされると気絶してしまう障害を持っているので、特に序盤と終盤は耳に手を当てながら聞いていた。聞きたくないとか、そういうことではなかったので、もし壇上で不快に思われていたとしたら、それは本当に申し訳ないです。

 読み方もかなり芝居がかっていて、聞いていてキツかった。弁論という感じはあまりしなかったし、弁論として聞いて欲しいという気持ちも伝わってこなかった。審査員が「女優を目指されたら」みたいなことを言っていたのは、僕には皮肉に聞こえた。

 内容についてひとつ言えるのは、原稿を書くときは、あまり感情を先行させないほうがいいということ。感情は人によってバラバラに持ちうるもので、感情に訴えるような話をしても刺さる人と刺さらない人とがいる。普通感情はスパイス程度で済ませるので、感情で訴えて刺さらなくとも他の部分でケアできるものなのだけど、弁士は最後まで感情を前面に出していたので、最初に刺さらなかった人たちには最後まで刺さらなかっただろうなあという感じがした。

 ただ、政策の部分では目新しさがあり、面白く聞くことができた。この政策は問題に対して100%応えられるものではないのかもしれないけど、依存症患者を掬い上げるルートも、問題意識とよく接続されていて、違和感のないものであった。その問題意識の持ち方も、セオリー通りといえばそうだけど、雑味がなくてスッキリしているというか・・・焼酎で言うところのチャミスルみたいな感じ・・・でもこの弁論をお酒で喩えてはいかんよな・・・。

 あとやっぱり、滑舌が明瞭なのはよかったと思います。やはりきちんと練習されたのだろうと思うし、文字ごとの粒が立っていて(音量のことを考えなければ)スッと入ってくるようなものでした。次回に期待が持てる弁論でした。

 

第九弁士 日本大学「内外の全体主義に抗す」

審査委員長講評

データがなかった
世界の大国の国力の数字はパッと出ないといけない
GDPはその国の財布の中身
それで中国に全くかなわない国が、その中でどうするべきだったか
全体主義の定義とか、言葉の定義をもっと大事にしてもらって、みなさんをもっと掴む言葉で喋ってほしかった

 今から厳しいことを書く。國學院大學日本大学は元々ひとつの学校であったし、お互いの弁論部の歴史を鑑みれば元がひとつであった可能性も全くなくはないわけで、だからこそ僕は國學院弁論部の前幹事長として、法秋雄弁会の益々の発展と会員諸君らの成長を願わずにはいられないし、それはもう、祈って、祈っているのだけど。

 だからこそ、僕は書かずにはいられない。僕はとても驚いている。正直、ありえないと思っている。余計なお世話かもしれないけれど、僕は本気で危惧している。今は僕たちが君たちと仲良く出来る瀬戸際なのかもしれない。それは僕らが拒絶されるかもしれないとか、拒絶するかもしれないとかではなく、もしかしたら、いずれお互いが言っていることが理解できなくなる日がくるのではないか、という恐れ。そんなの、あまりにも悲しい。

 

 この弁論で説得されるような人は、この弁論を聞く前から説得されている。弁士と同じことを考えている人が「そうだそうだ」と思うだけの弁論。もっとひどい言い方をすれば、身内で気持ちよくなるための馴れ合いの弁論。

 弁論の目的は聴衆の説得にある。競技弁論は聴衆をどれくらい説得できるかを競う。説得は、まだ弁士と考えを共有していない人に、弁士の考えへの共感を、あの手この手で促すことによって行いうる。つまり、この「弁論」は、いわゆる弁論の体をなしていない。これは身内への演説であり、アジテーションである。

 

 僕は最後列からこの弁論を見ていて、とても怖かった。途中で二度、拍手が起きた。しかし拍手をしていたのは、日大の関係者席に座っている学生のみであった。

 笑いも何度か起きた。しかしそれは、決して弁士への賛意とか、弁論にあったような中国共産党への嘲笑とかではなかった。会場全体が、弁士のことを鼻で笑っていた。あまりの程度の低さに呆れていた。

 弁論大会にとって、一番グロテスクなことが起きていた。それは、弁士と聴衆とが完全に対立してしまうことである。弁論は本来、弁論開始時点で弁士と対立しているような人をも説得対象に入れ、なんとか説得を試みるものである。そのためには、まずはどうにかして共感の糸口を探り、そこから徐々に穴をこじ開けていくように入り込み、最終的には自分のほうへ引き込むという、段階を踏まなければならない。

 弁士はそのためのステップの一切を無視していた。全体主義は悪、ファッショは悪という前提に立って中国共産党を悪の権化と罵り、読書がどうだのロシアだどうだのと散々寄り道して、結局何がいいたいのか分からないまま放り投げてしまった。弁士にとっては放り出したつもりはなくとも、噛み付けるだけ噛み付いてたら時間が来ちゃいました、みたいな弁論をされて納得できる聴衆なんかいないし、ましてや噛み付き部分も弁士の思想の押し売りであって、お世辞にも説得的であろうとする努力が見られなかった。

 審査委員長は講評でエビデンスの不足を指摘していたが、そんなことは正直些末である。僕はこの弁論の根本的な敗因が、弁論の中に聴衆がいなかった、原稿執筆の際に聴衆のことを考えられなかったことにあると考える。弁士は聴衆のことを考えながら書いたかもしれないが、実はその聴衆というのは聴衆ではなく「同志」だったのではないだろうか。もしそうだったとしたら大変だ。先の春秋杯で日本大学の弁士が何故勝てなかったのか、その分析と反省が全く出来ていなかったということになるからだ。

 

 拍手が起きたことが怖かったと書いたが、これの何が一番恐ろしいって、よりによって弁士を取り巻いていた環境そのものが、一斉に、間違った方向を向いていたことすら推測できてしまったことだ。こんなのはおかしい。あの法秋雄弁会である。少なくとも、僕が大学二年だったあの日、先輩に演練をつけられる人がいなくて困っていたところを、元々同じ大学だったよしみでと、大会ではライバル校なのにも関わらず、皆さんで演練指導を買って出てくれた、あの法秋雄弁会、誉れ高き弁論のプロ集団であったなら、決してこのようなことにはなっていないはずである。

 なぜ呑気に拍手なんかが出来たのか。誰も原稿を読んでいないのか? 誰も彼に演練指導をしなかったのか? そうでないなら、聴衆のペルソナが弁論大会のそれとは全く異なっているような原稿を前にして、何故誰も指摘をしてあげなかったのか?

 僕の中での「最悪のケース」は、弁士のこの原稿を見て、誰も違和感を持たなかった、そればかりか一様に「いける!」と思ってしまっていた、という状況。もしこういう状況が会内にあったのだとしたら、こんなことを言うのは内政干渉になるかもしれないが、絶対に一度は反省会をしたほうがいい。全員で反省点を徹底的に洗い出し、どうすればよかったかを考える機会が必要だ。検証の目は弁士でなく、もっぱら指導体制のほうに向けられるべきだ。特に1年生と2年生は全員で取り掛かったほうがよい。僕のことを呼んでくれても構わない。僕は君たちが嫌いだなんてことは全くない。コロナさえなくなればまた合同で勉強会をしたいし、後輩であれば自大の後輩にするのと同じようにご飯を奢りたい。僕は本気で心配している。

 

 弁論の話に戻る。

 本立論の最大のマイナスポイントは「何がいいたいのか」が分からないところにある。「価値弁論だからそれでいい」というレベルを超越している。

 まず、あまりに長い尺でもって、批判に次ぐ批判、それもレッテル貼りに終始するような内容にしたのはよくなかった。弁士が怒りを持っていることは十二分に伝わったが、感情を前面に出すよりも、もっとスマートに奴らの鼻をあかしてやることを、意識しなければならない。データを交え、誰でも共感できる部分をゲートウェイにして、そこから弁士の主張をすればよい。本大会は立論時間がただでさえ長く、論点さえ絞れていれば出来たはずなので、非常に悔しい。

 また、これは質疑でも突っ込まれていたことだが、弁士が多用した「全体主義」や「ファッショ」といった言葉について、言葉の意味のみならず、そのような連中に対する認識すらも、まるで暗黙の了解が築かれているかのごとく扱い、特に整理することなく使われていたのは非常に残念だった。しかも弁士は中国共産党全体主義を常に結びつけていたが、中国共産党は表向きにはむしろ全体主義ファシズムを敵視しており、日本国内においても、中国共産党全体主義を最初から結びつけて考えている人は僅かであろう。現在の状況を整理して提示した上で「これら理由により、現在の中共の体制には全体主義的な傾向が見られる」と提示してやれば、聴衆もある程度は納得して、そこから先の話を聞くことができたはずだ。

 これも大事なことだが、弁士は弁論に取り組む際、自分が正義だと思っている部分や、自分が多数派だと思っている思想について、一旦そうではないかのように振る舞わなければならない。なぜなら「自分こそが正しく、そうでないものは間違っている」といった態度が少しでも表に出た瞬間、聴衆が敵に回るからだ。実際には弁士と似たような価値観を共有している者であっても敵に回るだろう。なぜならそれは、弁士の取る態度としては不誠実なものだからだ。

 言うまでもなく、弁論の目的は聴衆の説得にある。「自分こそが正しく、そうでないものは間違っている」という態度は、ともすれば弁士と思想を異にするものを切り捨てるように取られ、説得的でないという感想を抱かせる。このようにして聴衆が弁士に不信感を持つと、そこからさらに説得を目指していくためのハードルが上がってしまう。故にこれは、自滅行為なのである。

 弁士はこの点において躓いていたようだったが、これは当該弁士のみならず、本大会の第一弁士や、先の春秋杯に出場した日大弁士にも見られた傾向である。

 

 技術的な部分で言うと、弁士は弁論中で「であります」を多用した他、独特の古臭い口調をふんだんに混ぜ込んで弁論を行っていたが、これが立論中に「負の相乗効果」を生み出していた。あまりにも暴走した内容と、今日日聞かないような古臭い言葉遣いが相まって、一層「ネタ感」が強まってしまっていた。

 実際、集計時間に他大学の聴衆と立ち話した際にも「最終弁士のアレは結局ウケ狙いだったんですかね?」と言われていたし、他弁士の話をしているときのような政策談義は一切起こらなかった。聴衆が弁士の弁論を(相対的にでも)下に見ていたのは明らかなように感じたし、弁論によって聴衆を説得して意識改革を促すという試みは完全に失敗していた。もし弁士が普通の口調で話していたのなら、聴衆はネタなのかマジなのか分からず、一応は弁論中に述べられていたことについて検討していたかもしれない。

 また、突然「本を読め」と言いだしたのもよく分からなかった。あのタイミングでぶち込んでしまうと、弁士の言っている本は百田尚樹とか三橋貴明とか櫻井よしことか、あの界隈の著者のもののみを指しているのではないか、と疑われてしまう。ロシアの話も唐突で、それもそれでひとつの大きなトピックになるものであっただけに、とりあえず触っておこう感が出てしまっていた。あの部分を削除して他をゆっくり読んだほうが良かった。

 

 いいところもあった。まず質疑応答が非常にうまかった。うまかった、というのは、内容がどうというよりも、態度が素晴らしかった。弁論中で気になったいろいろなことが、質疑応答の時間は我に返ったようによくなっていた。背筋はきちんと伸ばされ、視線はしっかりと相手を捉え、声の出し方や間の置き方も歴戦の弁士さながらであった。多分この点においては、昨日見た弁士の中で一番良かったのではないか。

 心無いことを言われても、それによって態度が変わることがなく、ポーカーフェイスで答えられていた。何より落ち着いて、どっしりと構えていたので、言葉にも自信を感じられた。これはなかなかできることではない。

 そして声調も、非常に聞き取りやすいものであった。立論中もあまり原稿に目を落とさず、前を向いて話せていた。かなり気合いを入れて練習をされていたとお見受けした。

 つまるところ、弁士は技術的には非常に完成度が高かった。書き方さえ事故っていなければ、あるいは違うテーマを選んでいれば、かなりいい勝負になっていた可能性がある。次に弁論をするときは是非、聴衆のペルソナを立てて挑んで欲しい。

 

 

※10/05 03:30 追記

 読者の方から拍手について、あれは会場の拍手を促すための「仕込み」だったのではないか、との指摘をいただいた。

 僕はこの記事を書くにあたって、その可能性は真っ先に排除した。なぜならそんなことは絶対にあってはならないからだ。

 サクラ行為は審査の公平性を歪めるものである。それをよりによって審査の公平性を守るよう努めなければならない主催者側が、もし率先して行っていたようなことがあれば、その時は出場団体の主催大会を全て出入り禁止にされたとしても、何も文句は言えまい。

 弁論大会では自大弁士への野次や質疑はご法度とされている。なぜなら野次や質疑は「仕込み」が出来てしまうからである。野次が欲しいところに野次が飛び、来て欲しい質疑が投げられるのは、弁士にとってはやりやすいことこの上ないが、言うまでもなくこんなことは皆目卑怯である。

 ファッショ的なものを嫌う弁士が、よりによって翼賛的な演出方法を使うわけがないのだが、自大弁士への拍手というのは、そう疑われても仕方のないものなのだ。今後は気をつけてもらえると嬉しい。

 

 

※10/07 02:40 追記

 本追記を書くまでの間に、複数の日大関係者の方から様々にお話をお伺いし、可能な限り丁寧に裏を取った。

 僕は当事者ではないので断定できないけれど、これらを勘案すると、どうやらサクラ行為はなかったようである。(裏を取る絡みで会の内情についてもお伺いしたが、当記事の問題意識からは逸れるものなので書くことを控える。)

 また、これも複数の日大の方から聞いた話しだが、やはり私が上に書いたような「悪い予感」は、概ね当たっていたようだった。現在の執行部の体制が以前のそれとは大きく変容し、演練中に指摘したことがほとんど聞き入れられない状況が続いていたことで、出るはずのなかった原稿が日の目を見てしまったと、大きくはこういうことらしい。また、私が指摘したようなことのほとんどが、実は事前に会内で指摘されていたことも併せて伺った。

 

 話は逸れるが、本記事の執筆後に、日大関係者以外の方からもDMや通話や対面で反響をいただいた。また当日会場で聞いていた他大学弁論部会所属の複数の参加者から、同じような感想を抱いた旨のご意見を賜った。

 細かくは記述しないが、何度か聞かれたのは「演題とは裏腹に、弁論の内容や会場の雰囲気が全体主義的であった」とか「質疑を含め、弁士が全体主義という言葉の定義について十分な見識がないように感じた」という意見である。

 言いたいことや出したい感情が先行してキーフレーズの定義が曖昧になってしまうというのは「あるある」ではあるのだが、弁士は特に読書を引き合いに出していたくらい、人々の不勉強を指弾していたので、聴衆の要求するレベルは上がっていた。それは予想できたし、対応も準備できたはずなので、そこの準備不足は残念であった。

 

 弁論は「言葉のスポーツ」と言われるが、ともすれば体格差によって成績が左右されるようなスポーツと違い、生まれ持ったものによる優劣は勝敗にほとんど関係ない。

 弁論大会で結果が出ない時は、何らかの原因があり、分析と反省を通じて改善点を見つけ出すことで、次回大会でのリベンジを伺うことができる。

 弁論大会は閉会式が終わればノーサイドである。元々この界隈は横のつながりが非常に強く、現在も共用のdiscordやslackで、日々大学を跨いだ企画が行われ、部会を越えて相互研鑽が行われている。会の活動に独自色を出すのは決して悪いことではないが、是非他大学とも交流を持ち、様々な視点を意識するようにして欲しい。そうすれば自ずと改善点が見えてくるかもしれない。

 弁士の次の弁論に期待する。

 

 


 

 

 通しで読まれた方、お疲れ様でした! 再びシラフの浅島です。

 ここまでで13500文字くらいあるみたいです。弁論5本分ですね! かなり反射的に書いているので、労力でいったら段違いに軽いですけれど。

 色々書いてしまいましたが、今回の大会は総じてレベルが高かったように思います。ほぼ全員が新人弁士、あるいは全員揃って新人弁士だったかもしれないけれど、特に1年生ながらここまでのクオリティに仕上げてきた弁士は、本当にすごいと思います。多分デビュー戦の僕より上手かったと思う。

 この国はまだまだ理不尽に溢れています。凄惨な現場は山のようにあります。向こうしばらくは、言葉が求められない日が来そうにありません。

 僕もとっとと就活を終えて紫紺杯や諸々の仕込みをしたいのですが、今日出ていた弁士のみなさんのほうがよっぽど立派なので、是非今後もますます活発にしていただければと思います!

 皆さん、お疲れさまでした!!!!!!

 

 

 

 

 ところで・・・・・・

 今度の土曜日に、國學院大學辯論部主催 第二回國學院大學学長杯争奪 全国学生弁論大会が控えております!!!!!!!!!!!!!!!!!

 ネット配信やります!! 是非!! 是非!! 見てね!!!!!!!!!!!