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レビュー用原稿:黒澤明の「生きる」を観て

 課題で書いたレポートです。

 変な部分があったらリプで教えて貰えると嬉しいです。

 

 

あらすじ

 癌で余命幾ばくもないと知った初老の男性が、これまでの無意味な人生を悔い、最後に市民のための小公園を建設しようと奔走する姿を描いた黒澤明監督によるヒューマンドラマの傑作。

 市役所の市民課長・渡辺勘治は30年間無欠勤のまじめな男。ある日、渡辺は自分が胃癌であることを知る。命が残り少ないと悟ったとき、渡辺はこれまでの事なかれ主義的生き方に疑問を抱く。そして、初めて真剣に申請書類に目を通す。そこで彼の目に留まったのが市民から出されていた下水溜まりの埋め立てと小公園建設に関する陳情書だった……。

 

 

 この映画の冒頭の20分あたりに、こんな台詞が登場する。

君がもし、あの人のように半年しか命がないとしたら、どんなことをするね

 末期がんの主人公を診察した医師が、助手に投げる問いだ。この問いに対する答えを探し彷徨う男を描いたのが、この映画だ。

 黒澤明は一般的に時代劇を得意としている監督と認知されていると思う。私も氏の映画をいくつも鑑賞したが、それでも私は、黒澤明が監督をした映画の中ではこの映画が一番だと信じて疑わない。

 芸術作品たる映画に優劣をつけることは愚かしいことかもしれないが、この映画を観てしまった私は、そうも言っていられないほど深い感銘を受けた。

 

 人間が産まれてから一定の期間を経て死に至るまでの間に起こす膨大なアクションの中で、それが世の中を動かしたり、あるいは大勢の心を揺さぶったりすることが、どれだけあるだろうか。

 誰かがそれを「生き様」と言うかもしれないし、あるいは「爪痕」と言うかもしれない。限られた時間の中で一人の人間に出来ることは少ない。この映画の主人公である渡辺も、社会の歯車としての役割をこなすばかりで、記憶にも記録にも残らないような平凡な人間として生きていた。

 そこへ降って湧いた余命宣告ともいえる診断、死の予感に、彼は震える。今まで自分が何もなし得てこなかったことを振り返り、取り返しのつかないことだと後悔する。

 そして彼は一時的にでも享楽的な生き方を指向し、そしてうまくいかなくなる。私はこの描写が怖くてたまらなかった。家族に裏切られ、自分が今まで大切にしてきた価値観に価値がなかったと知る時の落胆を、渡辺を演じる名優・志村喬の怪演とも呼べる演技を通してこれでもかと見せつけられる。絶望する人間の姿をこれほどまでのリアリティをもって観衆に突きつけてくる映像作品を私は他に知らない。

 ただの末期がんではない、自分の人生の否定という形で、自分が長年かけて守ってきたものの薄っぺらさを悟らされる渡辺の姿は、観衆各々が持つ価値観の危うさや無力さについて警鐘を鳴らす。 

 

 では彼は、私達は、何のために生きればよいのか。与えられた僅かな時間の中で、どれほどのことを成し遂げられるのか。黒澤明はこの映画でひとつの解を示し、表題に掲げた。

「生きる」。私達は、今を懸命に生きているだろうか。限られた時間を無碍にしていないだろうか。きちんと目的や信念を持って生きてこそ、その時間には価値が生まれるはずだ。

 渡辺が運命を悟ってから死ぬまでの五ヶ月間の生き様は、後の世代に爪痕を残した。彼は自身の仕事と向き合い、与えられた使命をしっかりと自覚し、素晴らしい仕事をした。彼の戦いの日々は人々の心を揺さぶったが、ついにそれが変革を生み出すことはなかった。

 彼が孤独のまま息を引き取ったのはとても寂しい。寂しげにブランコを揺らす渡辺の姿、彼の目を伝う涙に、私もつられて涙を流してしまう。彼の行動によって広場を得た子どもたちは、もしかしたら彼のことを認識できないかもしれない。しかし彼の作った公園のことを、子どもたちは生涯覚えているだろう。

 誰かの人生に一筋の光芒を放つことを自身の「役目」と決めた彼は、それを成し遂げてこの世を去る。完成した公園に響く子どもたちの笑い声は、ある男が生きた半年間の価値を明白にしている。そしてこれこそが、黒澤明が理想とした「生きる」姿勢の、ひとつの形なのだと思う。

 

 黒澤明の作品で評価の高いものは特に比較的初期に制作されている。古き良きなんて言葉があるが、実際古典的名作と言われる映画はトーキー映画が出回り始めた頃に集中している感がある。

 そもそも、SF映画の括りでいうなら1927年公開のドイツ映画「メトロポリス」が未だに金字塔と謳われているくらいで、1933年公開のアメリカ映画「キングコング」だって、特撮モノのはしりであるにも関わらず、傑作として今なお支持を集めている。

 私が思うに、元々行われていた舞台演劇の技術もさることながら、映像化する手段が生まれるまで日の目を見ていなかったアイディアを黎明期に一気に消費した結果、映画史初期のしばらくの間にこのような偏りが生じたのだろう。

 黒澤明の後期作品が一般に評価が高くないのも、もしかしたら初期にアイディアが「出尽くした」こともあるかもしれない。

 しかし氏の妥協を許さない姿勢が国内外で高く評価されていることは広く知られる通りで、今なお新しく黒澤映画に触れる若い価値観にも広く感動を与えている。

 

 稀代の天才と言われる黒澤明だが、彼がしばしば求められていた時代劇モノの映画で結果を出しながらも、こういったヒューマンドラマ仕立ての作品でもしっかりメッセージ性をもたせて妥協のない演出を貫徹したことに、私は驚きを抱いた。

 与えられた場所で輝く努力だけでなく、自分のフィールドを拡張する努力も怠らなかった黒澤明。彼が「生きる」の劇中で描いた理想の人間の姿は、激動の時代を生き抜きながら妥協のない映画づくりに没頭した男の姿と、どこか重なるように感じるのは私だけだろうか。