朝自慢

北朝鮮のアイドルと海産物について

慶應義塾大学福澤杯弁論大会の総括

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 クリームソーダを飲みに行った。下北沢は晴天だった。友人と昼に待ち合わせて、それから2人でお店に入った。

 秋と呼ぶには遅いけれど、冬と呼ぶには早すぎるような、寒くてあったかい日だった。三階席からは隣のビルと青空が見えた。窓側の席には太陽の光が直接射してきたので、薄いカーテンを閉めて柄越しに空を眺めた。

 あの空の色と、空みたいな色のクリームソーダを思い出しながら、僕は電車を待っていた。土曜日の吉祥寺はコートを着込んだ人が多かった。21時をまわらないくらいの時間に、渋谷行きの急行電車が入線してきた。いい気分になっていた僕は、改札の近くにあったJTBのラックから『首都圏・新潟発 10月からのハウステンボスへの旅』と書かれたパンフレットを引っこ抜いて、いそいそと電車に乗り込み、鞄の底にあったボールペンで、白いスペースにびっちりと思いついたことを書きはじめた。

  • 言葉ってなんだろう
  • 生活の中に光を見いだすには
  • 生き辛さと、それでも止まらない生について
  • どうして我慢を我慢と感じるのか
  • 尊厳と倫理について

  こんなことをひとしきり考えてから、もう余白があんまりなくなったパンフレットを眺めて、ひとりで勝手に満足していた。稚拙で中身がないけれど、たまに思っていることをガーッと書き出してみるのも楽しいものだ。あっという間に渋谷についてしまった。

 僕はパンフレットを四つ折りにして、ボールペンがあったように鞄の底にしまった。当分使わないものだから、思い出した時にでも出して、この時はこんな風に考えてたな、なんて暇つぶしできれば、と安易に考えながら。

 

 

 それからちょうど一週間が経った日。これを書いている今から見て、直近の土曜日。

 電車をホームで待ちながら、僕はガサゴソと鞄をまさぐっていた。

 奥から出てきた、八つ折りくらいに小さくなったハウステンボスのパンフレットを、広げて、真っ白に塗られた冷たい柱に押し付けた。泣きそうになりながら、僕は「言葉ってなんだろう」をボールペンでグリグリと塗りつぶして、申込規約の上から「バーカ」と書いた。

 電車に揺られながら、行きがけの道で聞いていたSpotifyの自作プレイリストの続きを聞いた。最寄り駅の手前で、colormalの「東京」が流れ出した。歌詞に「改札」が出てくるタイミングで改札を通ろうと思ってダッシュしたのだけど、階段を上りきったとこで歌われてしまった。

 『言葉なんて分からないな』なんて、このタイミングで言うなよな。

 ずっと言葉に振り回されてばっかりだ。

 冷たい雨が、しとしとと降っていた。光を求める人もいないような薄暗い路地で、僕だけが街灯を必要としていた。こんな時なら泣いても恥ずかしくないなって思ったけど、もう涙が出るような気持ちでもなかった。やるせない気持ちと、ただただ悲しい気持ちとがあった。誰も悪くないのなら、そう感じる僕が悪いのだなと思った。そしてきっと、誰も悪くなかった。

 

 

 

 弁論界隈の、特に一部の、僕が今までアクティブな関わりを持っていなかった人たちについて、誤解していたことが3つほどあった。

 ひとつめが、僕が思っていた以上にみんな擦れてなくて、自由に意見を言ったり楽しく喋ったりすることができるということ。知らないうちに僕が偏見や先入観を持っていて、それに基づいて距離を取っていたばっかりに、貴重な出会いが喪われていたかもしれないと思って悔しくなった。僕が想像していた以上に、この界隈はいい人が多いみたいだ。

 ふたつめが、この中にタバコを吸う人が多いこと。たまたま僕のまわりだけ嫌煙家が集まっていたみたいで、バイアスがかかった尺度でタバコについて考えていたけれど、割と身近に、その価値観とは違うコミュニティがあって、嫌煙するにももうちょっと考えないといけないな、と思った。

 みっつめが、弁論に向かっていくスタンスが僕とかなり違う人が多いこと。社会問題に関心がある人の集まりであっても、常に何かしらに怒りや疑問を持ちながら生きている人はそれほど多くないかもしれないこと。だから大会に出る目的が怒りの発露とか「俺の話を聞け~!!」ではなく、ただ「勝ちたい」になっている人がそれなりにいること。

 

 全部、なんとなくわかっていた。わかっていたけど、わかっていることを認めたくないままズルズルといた。それを突きつけられた。興ざめとか失望とか、そんなものは今更ない。でも、やっぱりそうだよな、と思い直さなければいけないのは、僕にとってそれなりに負荷だったりする。わがままですよね。

 それでも、みっつめに関しては、まだどこかで淡く期待しているところがあった。借りてきた問題意識でも、ちゃんとその問題に入り込んで、取材を通じて現実を知って、被害者や弱者に同情を寄せながら解決策を探って、エビデンスの海で揉みくちゃにされながら、光をたぐり寄せるためにもがいて、そして演台で光の在り処を叫びながら「ここに行け! ここに手を伸ばせ! ここに手を伸ばす者を助けろ!」と訴える。美しい弁論だ。僕の見立てではみんなここを目指していると思っていた。

 

 だから、呆れたようにこんなことを言われた時、僕は相槌を打つ余裕もないくらいフリーズしてしまった。

 「論としてどれだけ合ってるかは問題じゃないんです。現状分析が間違っていても会場の人が誰も気づいていなくて、弁士の言うことに納得していればそれは説得したことになるんです。」

 「どんな弁論でも専門家が会場にいれば何かしら突っ込まれるでしょう。どの弁論も、見る人が見れば穴があるんです。だから穴の小ささで勝負しちゃダメです。穴は消せないので、消すことに腐心するより他で点を取りに行ったほうが効率的です。」

 「弁士が大会で見られているのは説得力です。今回だって説得度100点満点ってレギュレーションに書いてあるじゃないですか。正しい弁論かじゃなくて、審査員が説得されているかどうかが大事なんです。説得されている、という状態に持っていくのに、現状分析の正確さはそこまで大事じゃないですよね。」

 

 

 弁論大会って、なんだ。

 競技か。

 競技だからこんなことになるのか。

 嫌なら駅前で辻立ちでもしていればいいんだろうか。

 まあ、そうだよな。

 弁論術が社会に出て役に立つものであることを期待している。自分の為だけでなく、社会の小さな声を拾い上げてデカく拡散する力を持っていると信じている。その力を得るための場が学生弁論界で、研鑽するためのひとつのバロメーターが弁論大会なんだと思っている。思っていた。

 テーブルが静かになってしまって、言葉の主がタバコを吸うために席を離れた。どうしても 「それで勝てるのがいいことだとは思いませんけどね」の言葉が出なかった。他の同席者が話題を変えはじめたところに混じらずに、僕は下を向いて考えていた。なぜだかやんすとくんの言葉を思い出した。

 「どれだけ理解しようとしてもできない、理解不可能な人がいるのに、それでも誰も彼もを理解しようとするのは意味が分からない」

 僕が彼に、ではなく、きっと彼には僕は「理解できないもの」に映っていたんだろうな、と思ってしまって、悲しくなった。あらゆる苦しみに寄り添える人が強い人なんだって漠然と思っていたけど、まず僕がある人からは理解され得ない人間であることが証明されてしまったら、どうやったって「強い人」にはなれない気がした。

 

 言葉とか正義とか、いろんなものの有意性がぐらついている。僕の根本の部分がぶっ叩かれた気がした。言葉さえあればどこまででも行けるし誰にだってなれる、なんて、驕りだったかもしれないなんて思う。

 それでもまだ信じることを捨てきれないでいる。日曜夜に終電を逃して渋谷PARCO前で吐きそうになりながらうずくまっていた僕を介抱してくれた優しい人のツイートを追っかけながら、この文章を書いている。もうずっとお酒なんか飲んでいないのに、泥酔した時のような不快感に襲われ続けている。どんどん自分が嫌になっていくのに、まだまだ嫌になれそうな気がする。パンに貼ってある「SEIKINおすすめ」シールとか、お茶に貼ってある「実は! 体脂肪を減らす」シールとかを体中に貼りまくって生活したいくらいには参っている。それでもまだ諦めてないのは、あまりにも僕がその価値観に依存し続けていて、救われ続けていたからなんだと思う。

 

 

 

 お気持ち表明が長くなったけど、誰の福澤杯をどう総括するかなんてどこにも書いてないので、諦めてください。

 この大会のレギュレーションは少し特殊だ。なんてったって持ち時間30分をどう使ってもいいなんて、僕だったら質疑が怖いから30分喋りつづけちゃうね。でも大体、弁論15分、質疑14分、締めに1分とか、そんな感じに収まっていた。

 

 内容がバラバラすぎたので審査員による全体に向けた講評は比較的軽かった。

「今回は説得度100点満点の大会です。聴衆が説得されたかって観点で審査するなら、3つ重要なことがあると思います。弁士が取り上げた課題が世論に浸透しているかこの課題によってどういう二次的な被害が生まれているか、そして声調態度がどうか。少なくとも私はこれに沿って審査しました。」

「分析をきっちりしないと、自分の選んだ解決策に自信が持てないと思う。弁論のための練習をしているうちに研究したいテーマが見つかるくらいにやり込んでください。」

「野次は盛り上げるもの本質をえぐるもの詭弁を見抜くものにしないといけない。その野次は本当に必要な野次なのかを考えながら野次して欲しい。」

「論理の一貫性に注目していました。一貫していることが前提ですが、他にも見たり聞いたりしたこと、感情に訴えることを混ぜながらできると効果的ですね。(後者はここぞという)ポイントでうまく使うわけです。」

「実は難しい話をしばらくしていても、終わった時に残るのは強かったフレーズやワードです。聴衆を一言で掴む言葉、終わったあとも残り続ける言葉が必要です。」

 

 個別の講評に時間を割いていたのが印象的だった。フィードバックに重きを置いていたらしくて、僕にとっては好印象だった。講評もさることながら、弁士の自由度が極端に高い大会を開くにあたっては、いろいろと大変なこともあったろうに思う。無事に大会をやり遂げた慶應藤澤会はすごい部会だなあ、などとオープンマッチを開いたことがない大學の人が言ってみる。本当にお疲れさまでした。

(弁士ごとの審査員講評に関しては、大学弁論系部会合同Slackの「#tmp_20191123_福澤杯」を参照してください。閲覧希望の方はTwitter:@asadzimanまでご連絡ください。)

 

 

 

 

 

第一弁士 慶應義塾大学「近所のぱち屋」(第三席)

 遅刻のため聴けなかった。入賞おめでとうございます。

 ギャンブル依存症への対策として、パチンコ・スロットの遊戯を免許制にしてログをつけ、回数制限を設ける政策を弁論していたそうだ。

 

 

第二弁士 中央大学「プラスチック天国」(優勝)

 現状分析が間違っている。現状の技術を用いると、プラスチックの再資源化には焼却処理以上の環境負荷がかかる。弁士のプランだと物質的な解決になっても環境問題は解決されない。

 そもそもプラスチックには頑張って再資源化できるものとできないものとがある。弁士はしきりにドイツの例を引いていたが、ドイツは日本以上に大量消費社会なので、分別すれば再資源化できるものがそこそこの数で集まる。ドイツのプラごみの30%ならやる意味はあるかもしれないが、そもそも日本ではプラゴミはそこまで多く発生していないので苦しい。

 日本はゴミ収集が市区町村単位で、それぞれの処理工場に分別ラインを引いても再利用分の環境コスパが見合うものになるかどうか怪しい。細かく処理工場に収集する手間が増えれば運搬による環境負荷も出るだろう。日本に処理工場を5ヶ所建設せよとのことだったが、5ヶ所に集積させるのにかかる環境負荷が洒落にならない。

 日本国内でも、横浜市みたいな大きな自治体では極力分別させることで環境負荷を下げようとする取り組みをしていて、一定の効果が出ている。それにしても横浜市のために処理場を立てようったって割に合わない。渋谷区なんかは何もかも諦めて全部燃やしている。燃やしてガスを丁寧に処理してやれば、熱で発電できるのでかえって環境負荷が減らせて相対的にエコなんだそうな。

 質疑で日和ってしまった僕も悪いのだけど、ちょっと調べれば出ることも詰められていない政策で勝ってしまったのは正直「え~~っ」って感じだったし、そもそもこれを選考会で通すのってどうなのって感じてしまった。でも上のほうに長々と書いたように、これは「説得度100点」の「弁論大会」であるので、正直ここは関係なかったのかもしれない。

 この環境負債をどうにかしないで後世に受け継がせるのはヤバい、みたいな話をしていたと思う。質疑でも突っ込まれていたが、この処理場を建設するのだけで莫大なカネがかかるし、何より焼却処理に比べてランニングコストが圧倒的に高い。それを全部すっとばして「とにかく今どうにかしないとヤバいんです!」論で強引に押し切っていたのはどうかと思う。政策の実現可能性について、弁士すらハナから諦めているようにしか見えなかった。

 審査員との問答は極めてよかった。ここまでで展開していた論調を引き継ぎながら、分かりやすい言葉で、極めてもっともらしく語っていて好印象だった。(断っておくが、ここでの「もっともらしく」には皮肉的な含意は全くない)

 最後に紙ストローの実演で伏線を回収したのは見事だった。この大会のレギュレーションについてよく検討したのだろう。特にストローのに目を引くものを採用したのはいい。本人がやったのなら素直にすごいと思うし、誰かが提案したのならまさに「お手柄」だろう。

 声調は群を抜いてよかった。見られなかった第一弁士を除けば、あの4人の中でぶっちぎりでよかった。はきはきと丁寧に、緩急をほどよくつけて喋っていた。質疑応答も概ね淀みなく、想定通りのように喋っていた。そして何より本原稿が明朗だった。構成や流れが綺麗で、聞いた誰もが「納得できる」ものだったに違いない。にしても緩急の加減は本当に上手だった! 会場の音響も手伝ったかもしれないけど、お世辞抜きに僕が今までに拝聴した辞達学会さんの弁士の中で一番聞きやすかったかもしれない。

 質疑応答も淀みなく、と書いたけど、これに関しては審査員講評でケチがついていた通り、最初から弁論中に不足を作って質疑で補完する体裁を取っていたからかもしれない。どうせ30分自由に組んでいいのだから、それ込みで15分弁論して10分質疑でもよかったんじゃないか、とは正直思う。まあただこれは感情の問題なので、これ以上の言及はやめておく。

 技術点を丁寧に積み上げていくテクニシャンだった。次回作も期待しています。おめでとうございます。

 

 

第三弁士 明治大学「相続制度廃止論」

 まずは弁士本人の弁から。

 

どう書くかどうか迷ったのだけど・・・

もったいねえ!!

 

 相続制度を廃止せよ、との弁論だった。弁士の理想とする社会とそこへ向かうビジョンには共鳴できるものがあった。展開の仕方も綺麗だし、話も分かりやすい。でもいかんせん、弁論の中身を評価するには時間が足らなさすぎる。本人もそこを重視していないようで、声調や態度にあまり注意をしていない感じが見受けられた。本人がどう思っていたかは分からないけれど・・・。

 ツイッターで『対話』するという試みはとても面白かったし、こういうことをします、という示し方もよかった。ツイッターという装置を選んだことも決して間違ってはいなかったと思う。審査員の人も言っていたが、いまやツイッターで募集した感想文を地上波で流すのは「あるある」だし、そこがフックになって万人に受け入れやすい装置になっていたのだと思う。

 機材トラブルは不運だったけど、十分見通せることだったのだからリカバリは練っておいたほうがよかったと思う。というか、君のことだから練ってあるのだとばかり思っていた。アイディアを福澤杯という場所で使うって選択は正解だったろうけど、審査員がいる以上は、応対や応答は丁寧にするべきだったと思う。

 誰かも言っていたけど、応答のログをつけることを目標にするなら、弁士自身もツイッターで返信していく必要があったはずで、口頭でやっていたのはちょっといただけなかった。やるにしても 読み上げ→口頭での応答→その場でツイートor後ほどレスする約束をする って流れが欲しかった。

 これからの弁論大会はかくあるべき、というひとつの形としてツイッターを提示して、その有用性をもっと丁寧に取り上げて、それ自体についてツイッターで応答する、という弁論にしたほうが安牌だったように思う。というより、相続制度の弁論は別にちゃんと、メジャーなレギュに沿った大会で聞いてみたい。

 声調はそこまで上手ではなかったけど、原稿は軽妙でいい感じだった。福沢諭吉の格言を引いて会場を沸かせたのは、さすがエンターテイナーだなという感じだった。そして何より、上級国民が通う大学で上級国民批判をやってのけた度胸には平伏するしかない。あんた【漢】だよ・・・。

 全体的に詰めが甘かった、という総括にはなってしまうのだろうけど、選んだ題材と用いたアイディアは非常によかった。内容次第では本当に福澤杯の覇者になっていただろうだけに非常にもったいない。反省点は色々あると思うので、もし今後似たような大会が開かれたらぜひトライして他の弁士を出し抜いてもらえると。期待しています。

 

 

第四弁士 早稲田大学「分断と対話」

 『声調が成長

 『王道を征く雄辯會

 誕生日が7月15日だったから高3の参院選に行けなかった、って掴みがめちゃくちゃ良かった。のっけから持っていかれた。ちなみに僕は誕生日が6月25日なので投票に行きました(ニッコリ)。そして死に票になりました(ゲッソリ)。

 雄弁の本懐、まさにThe 弁論って感じの政治弁論だった。ハッキリ言って出る大会は間違えたと思う。まあ何で出たかは君の口から聞いたので。・・・嫌な事件だったね。

 解説に時間を割いたのは正解だった。でも聞いている人がポカンとしてしまうだろう部分がちょくちょくあった。まさに最後まで君が粘っていた中盤についてなのだけど、仕方ない部分はある気はする。講評の時に「もっと丁寧に分かりやすく解説してもらわないと素人が置いていかれる」と言われていたけど、これ以上配慮したらバランスが崩れる気がするので、僕はこれくらいでいいと思った。(※個人の感想です)

 イデオロギーの対立軸が狂っているって話は、もうちょっと丁寧にやってもよかったんじゃないかと思う。維新が革新で共産が保守、なんて、普通に聞いてたらギョッとする話なのに、めっちゃサラサラと流してしまっていて非常に勿体なかった。そのあとの話にもあんまり生きてない感じで、なんであそこであれを出したのかよく分からなかった。多分僕がとかじゃなくて、あの会場にいて前提がわかってない人がいたら全員そう思ってたと思う。

 政策が現状分析とうまく噛み合っていないようだった。審査員からも突っ込まれていたけれど、あの突っ込みがどれだけ正しいものなのかは僕には分からない。少なくとも提示していた現状分析に対して政策が唐突すぎた感が強いと感じた。原稿のつくりとして、段々政策のほうに誘導していって、提言のタイミングで「ま、そうするしかないわな」と思わせるようなもの、あるいはそこを目指したものでないと、聞いている側としては苦しいものがある。目指した痕があれば同情できたのだけど、聞いている感じだと結構唐突にポンと政策が出てきた気がする。伏線は張っていたかもしれないけど、政策提言の直前の部分がよくなかった。

 まあただちゃんと最後まで聞いていれば「それもアリか」と思える構成にはなっていた。特に「現在の選挙制度は向いているものが逆のものを共存させている」「そのシステムを衆参両方で取り入れているのだから、両院で同じような結果になるのは当然」の台詞は、まさに弁論中で触れていた問題の最大公約数的な文句だったと思う。折角だから、もうちょっとネットリ読んでもよかったかもしれない。というより、提言の前に言っておかないと効果が薄いような気がする。

 ずっとロジックで詰めていたのに、質疑応答で急に「(小選挙区制導入で)金権政治が減ったように思う」とフィーリング回答になってしまったのは減点ポイントだったかなと思う。でも「じゃあどうすればよかったんだ」と聞かれても分からない。質問者が問題に詳しいが故に、イジワルな質問をしたんだと思う。

 質疑を対話のようにするってアイディアはよかったのだけど、多分自分の首を締めていたと思う。名乗り口上が簡易化された分、実質的な質疑時間が長くなってしまって、審査員3人からの総攻撃にも繋がったんだと思う。経緯が経緯なだけに、これは不運としか言いようがない。

 今回はマジで声調が成長していた。直前に上がった原稿とは思えない読み上げっぷりが光った。読み上げペースを気にしなくていい大会だったのも功を奏したかもしれない。原稿の内容も問題のピックアップから用語解説、政策提言して締めっていうのは、最適解ではなかったにしろ適解のひとつではあったように思う。聴き応えのある政策弁で、審査員の言葉を借りればまさに王道をゆく雄弁会らしい弁論であったと言える。

 二大政党制のデメリットも分かりやすかった。質疑応答もバチバチにやりあっていて、さすが専門家って感じ。学生は天下国家を語れよというのは本当にそう。特にヘビーなこの話題で、しかも自分に不利な条件の質疑にインターバルなしで向かっていったのは迫力があってよかった。お疲れ様です。

 

 

 第五弁士 慶應義塾大学「馬鹿」(準優勝)

 発達障害が見つかりやすい制度作りを、という弁論だった。声調・内容ともに大きな不満はなかったのだけど、彼にとって不幸だったのは、会場中に発達障害当事者がそこそこ紛れ込んでいたということで・・・。

 『病気を病気と認められる社会』が本当に『優しい世界』であるかどうかには議論の余地があるように思う。発達障害があるというだけで結婚に大きな障害が出るという事実を、まさか弁士は知らないわけがないだろう。障害があるということで差別されている人がこれだけいる中で、すべての発達障害者を炙り出せ、とするのは、さすがに当事者への配慮が足りていない気がする。彼らにしてみれば、通知が送られてくること自体が恐怖のはずだ。

 チェックシートを学校でやらせろ、という政策だったが、その方式や負担について特に言及がなかったのが残念だった。教師の仕事が間違いなく増えるわけで、その増える量もデータ打ち込みやら管理やら予後調査やらでかなりあるので、現状カツカツとされている教育現場にそげなものをぶっ込むのは無理があるように感じる。そういうスタッフを育成して派遣するとか明言したほうが、まだ政策としての実現可能性が上がった気がする。

 オンライン診療の拡充にしても、まずもって医師の絶対数が足りていない中で、どこにそんなリソースがあるんだってツッコミを入れられたら終わりだと思う。伝え方は上手だったけど、政策だけ切り抜いて見た時に安直感は拭えないかなと感じた。

 僕の言いたいことはだいたい審査員講評で言われてしまっているみたいだ。自分に障害があることを知らないと何も始められない、というのは一見正論っぽいのだけど、弁士が言うように果たしてあらゆる困難に優越するのか、という部分に疑問符がつく。質疑応答でひたすら繰り返し唱えてしまったことも対話拒否っぽくてオーディエンスの心象を悪くしたように思う。診断結果を伝えて以降のフローも投げっぱなしでかなり雑に感じた。スタートが大事なのはそうでも、道筋がないとゴールまで行けない。

 声調はよかった。本人は謙遜していたけど、大会終了後に話した感じと演壇に立っている時の様子が全然違ったので、相当練習したのだと思う。しかも弁論中に言っていたように、彼は強迫性障害なので、それを乗り越えるためにした練習の量を考えると・・・凄まじいことだ。おめでとうございます。

 

 

 

 

 

 いつか誰かを救済するような政策を打つような弁論をやることがあったら、レミオロメンの「3月9日」みたいな弁士になりたいな、と漠然と思っている。

 瞳を閉じればあなたが、まぶたの裏にいることで、どれほど強くなれたでしょう。

 ・・・聴衆にとっての僕もそうでありたい、なんて。

 聴衆に、もし何かで悩んでいたり困っていたりする人がいて、あるいは困っていることにすら気づけていない人がいたとして、そこに弁士として登壇して話す言葉で、解決に向けた道筋が見えたり、それで救われたりすることがあったら、それは素敵なことだと思う。

 大会がテクニックを競う場なら、実践の場でもいい。ビールケースの上でも、選挙カーの上でも、宴席でもいい。僕の言葉が誰かの力になってくれたら嬉しいし、そう思いながら日々を生きている。1人ではないって、誰しもに思ってもらいたい。

 結局、理想の弁士像があるんだったら、自分が体現してみせる他ないんだな、と思う。そのためにはまず、僕が次の大会を頑張らないといけない。頑張るかぁ~~!

 

 

 そういえば東京大学総長杯、書類審査通ってました。

 12月15日、本郷は安田講堂で、皆さんをお待ちしております。