理解とか同情とかは本当にどうでもよくて、ただ「あ、こいつにも心臓があって呼吸してて、水を飲まないと生きていけないんだな」と確認してもらいたかった。
限りなく透明な存在でいたかった。生きてるか死んでるか分からない状態になって、誰の気にも留めないような存在になって人知れず生涯を終えたかった。僕が死んで喜びそうな人とたくさん会ってきた。遠ざけようとしてくれた大人たちも、いつか同じように見えるようになってしまった。誰にも理解されたくなかった。理解しようと近づいてくる人間が、僕に勝手に色を塗りたくるのが怖かった。僕が何者かなんて決めないで欲しかった。病名なんて振らないで欲しかった。薬なんか教えないで欲しかった。
でも欲が出た。大學に入って友達が出来た。受け入れてくれる空間を得た。僕の本質を暴こうとしないで、表面だけを撫でてくれる人たちに囲まれた。気持ちよかった。僕は生きていた! そして僕は生まれて初めて恋をした。
心の中に小さな自分がいる。お腹が空いたらそいつに食わされる。遊びたくなったらそいつに遊ばされる。喧嘩になったらそいつに殴らされる。傷ついたらそいつが慰めてくれる。まだ何者でもない僕が、僕としていつづける、これを肯定してくれる。しばしば万能感を与えられて、目の前のことに身を窶しては、ボコボコにされて、でもそいつがいる限り立ち上がれないことはなかった。
僕はこいつに嫌われたくなかった。こいつの顔色を伺って生きた。この小さいのを満足させる為にどう動けばよいのか。ショートスパンの積み上げでロングスパンに至るようなタスクの組み方を知った。勉強が自分の役に立つことを知った。読書が面白いだけじゃなくて、体面も良くなるってことを知った。短い音楽を繋ぎ合わせると気持ちよくなれることを知った。少しの我慢で長い我慢を回避できることを知った。
でも全部どうでもよくなった。
殴られた。殴られたのに、怒られた。捨てられた道具箱、傷つけられた机、広がった噂。僕は保健準備室に呼ばれて、よく我慢したね、偉いよ、と慰められた。でも「でもね」がついて、僕は悪者にされた。不可分の存在だった自我に墨液を垂らされた。
泣きじゃくる僕を見て、母さんは「火のないところに煙は立たない、原因がないのにいじめられることはない」と突き放した。同じ月日が繰り返された。ボロボロになっていく僕を見て、母さんは、僕の病気を疑った。僕は精神病院で一回目の検査を受けた。そして僕には病名が貼り付けられた。濁った自我に再び墨液が垂らされた。
信用できる人間の作り方が分からなくなった。いじめられる頻度も減り、友人もできたが、本当に、どころか、ある程度でも心を開ける人間は数えるほどしかいなかった。彼らとそのような仲になった方法も思いつかない。環境が変わるたびに手探りだった。どうすれば人を信用できるのか分からなかった。僕の汚れた自我を人に見せることが恥ずかしかった。それを見てしまった人が傷ついたり、僕のことを訝しんで見るようになることが怖かった。
僕はだんだん、何者にもなっていないまま、他の何者にもなれない者になっていった。
小さな自分がそっぽを向いた。
大学に落ちてからの僕の生活は支離滅裂だった。
明確にネグレクトされるようになって、自己評価と周囲の評価が合致することに安心感を覚えた。中学や高校のカウンセラーやメンクリの先生は僕を励ましたり僕のいいところを探そうとしたりしてくれたが、そのたびに僕は、僕に価値がないことは僕にしか分からないのだな、という孤独感を味わった。それが今、ついに覆された。大学に無能と判じられ、家でも人間扱いされなくなった。なんと幸せなことだろう、僕はひとりではなくなったのだ!
体重が15kgくらい落ちた。模試の偏差値はみるみる下がっていく。予備校では外国のラジオを書き取って勉強した気になって、簡単な世界史のクイズをひたすら解いて自己肯定感を紛らわせ、トイレでオナニーして適度な疲労感を得て、野球を見たり散歩をしたりしてから家に帰った。カレンダーには☓が増えていく。だんだん自分の人生が☓で埋め尽くされていくような気分になった。布団で寝ると3時間くらいで汗だくになって起きてしまうから、室外機に水たまりができるくらいクーラーを効かせて裸で寝た。血行障害になってペンが持てなくなったばかりか、夢の内容もどんどんおもしろく、はちゃめちゃになっていった。
ある時、母さんにひどいことをされたから、同じくらいひどいことをした。あとめちゃくちゃに怒鳴った。そしたら父さんに呼び出された。怒られるだろうな、とソワソワしていたら、おい義俊、冗談で言ったんだよな? って質問された。母さんの脳天からもうひとりの母さんが出てきて、黒目の中の白目をぎょろりとさせながら毒のつぶてをぶつけてくるんだよーって正直に話したら、おい義俊、ふざけて言ってるんだよな? って質問された。めっちゃ怖かった。
それからなんだかんだあって、僕は窓に鉄格子のある病院で寝ることになった。ポカリスエットを飲みながら2chとTwitterを見て、たまにうんこをする生活。早稲田大学がめっちゃ近かったから早稲田大学生になった気分だった。でも僕の中で早稲田といえば早稲田アカデミーか早稲田塾くらいのものだったし、都の西北も「早稲田の森に」までの歌詞しか知らなかった。落とされて当然ですわ。
僕だけがいる教室でセンター試験を受けて、セン利の第四志望に合格をもらった。年度のとこが違う、同じ封筒の二通目を貰った。でも他からは何も届かなかった。僕はというと、絶食しては辛いものを食べるというセルフネグレクトを繰り返していたせいで、持っていた痔がすっかり慢性化してしまっていたので、これの治療で結構忙しくしていた。これ以上浪人はできなかったから、なんも考えずに入学金を振り込んだ。
印象に残っている出来事がある。束の間の無職生活を謳歌しにプラついていた時、近所のケンタッキーに入って無料券だけで食事をしようとした。担当した店員が、中学の時に僕をいじめた女子だった。化物みたいなビジュアルになっていた僕を見るなり、彼女は若干顔をこわばらせてから営業スマイルに戻って、淡々と注文を取った。
商品を受け取って席についてから、僕のなかにえもいえぬ喜びが湧き上がってきた。彼女が顔をこわばらせてから笑顔になるのにかかった労力、笑顔を維持したまま注文を聞き終えるのにかかった労力、これだけのリソースを、こいつから奪うことができた。奪い返すことができた。こいつは顔も見たくないと言った相手の顔面をカウンター越しに直視した。直視して植え付けられた不快感を抱えながら今日一日労働するのだろう。なんて愉快なんだろう、と、思った。キモ。
大學で出会う人達はみんな輝いていた。
高校から続いている、連続した青春。
青春、青春、青春。
あゝ青春。
愉快なことじゃあないですか皆さん。
いいですか、
僕はそこにいないんです。
終わってますからね。人間が。
呼ばれていってはニコニコしながら酒を飲んだ。浪人してたおかげで成人が早かった。飲みに付き合ってくれる後輩だって一時期モテたりした。
夏くらいになって、部屋の中の中学高校グッズを処分するために片付けをしていたら、中学一年~二年の時に一生懸命書いていた遺書のノートが出てきた。
掘り返してからずっと机の手に取りやすい位置に置いて継ぎ足し継ぎ足し使っている。
今これ書くために読み返してるんだけどあっ、死にたいな。死にたくなってきた。
ごめんなさい、逸れちゃうから一旦戻します。
このブログは着地点を決めないまま書きっぱなしてるものなので、そのへんのライブ感も一緒に楽しんでいただけると。
閑話休題。
僕が考えてきたこと、勉強してきたこと、将来やりたいこと、その他綺麗なことを先輩や同輩に話すと、大抵は「よくそこまで考えてるね」とか「立派だなあ(それに比べて僕/私は)」と言ってもらえて、簡単に自己肯定感を回復することができた。でもこれ、今にして思うと搾取なんですよね。それも一番コテコテの、他人の思考を奪うやつ。
で、それを自覚して自己嫌悪になって、解消するために死に方とかを色々と考えたり、でも死にたくないという漠然とした気持ちが理性のどこかにあるので、タスクでギチギチにして無理やり自分の足を地面にくくりつけたりした。ふたつとも未だに習慣的に続けてしまっているのでよくないのだけど、やめたらやめたで次突発的に死にたくなった時にマジで死んじゃう気がするからやめられないんだよなぁ・・・。
で、なんやかんやあって僕に好きな人が出来ます。大學ひとりめ、通算3人目です。3人目、と言っても、それまでは性欲を感じただけであって、容姿以外の部分で惚れたりってことはなかったわけです。この人も最初は容姿で一目惚れしたようなものですが、授業中のものの考え方や発言の内容で、この人はすげえ他人に対して誠実なんだなあ、そして自分の意志がきちんとあって精神的に自立している、と感じ、ますます惹かれていったわけです。で、最後に告白をするんですが、そこから先の顛末は読んで気持ちのいいものでもないでしょうし省略します。
で、そのあと4人目の人を好きになった。好きになったけど諦めた。あまりに急だったし、僕が始まる前から終わらせるようなことを(酒が入って)してしまったので、急に終わるどころか最初からどうにもならんやつだった。というより今思うとこれは恋じゃなくてもっと身勝手な感情で、自分のしたことを謝りたいけど迷惑がられることは分かりきっていて・・・、いや、これ以上書いても迷惑だろうし、やめておこう。
5人目の人の話はツイキャスとかでもたまにしてるけど、書く気が起きない。現在進行系だし、割と自己嫌悪が激しい。元々友人で、友人としての付き合いがあったところに、ある時に急に異性として意識するようになってしまって、でも僕はこの人とカップルではなく友人の関係でいたくて・・・とジレンマがずっとある。
以前別の場所に別の形でひり出しておいたものがあるので引用してお茶を濁す。
僕は友達に恋をした。一目惚れだった。積み上げてきた信用とか信頼の上から、溶かしたラクレットチーズみたいなファンシーで味の濃い感情がドロドロとかけられていく。
待ってくれ、やめてくれ、そうじゃないんだ。僕は彼女のことをそんな目で見たいわけじゃない。彼女は人間で僕も人間だ。同じ生き物で、対等で、思考があれば共有しあう仲がいいんだ。僕は人として彼女を尊敬しているし、その思想の一端に触れて僕も自分の価値観をアップデートしていきたい。そして僕も彼女の助けになりたい。そうして差し伸べる手が情欲で穢されていてはいけない。
でも、穢されてしまった。僕はポコポコと湧いて出る「好き」を止める術を持たなかった。リアルタイムで塗り替えられていく感情が、僕のメンタルにトドメを刺した。僕は自分がどこの誰よりも卑しい人間に感じられた。好きな人が既にいるのにこう思うこと自体が気持ち悪かった。でも何よりも許せなかったのは、フェアでありたかった相手を前に、僕が『男』であることを自覚してしまったことだ。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054888237682/episodes/1177354054890162031
ここまで書いてから一時間虚無ってた。
うーん、心が痛い。
こう、明確に「心が痛い」って感じることが、しばらくずっとなかったんだよな。
浪人中のは気持ちいいまであったけど、今は本当に苦しいな。
このことに限らずだけど、なりたい自分と今の自分にギャップがありすぎて、前に進むことができない。
僕には死にたいと思うタイミングが何度もあった。
なんとか生き永らえてるけど、実は端折ってるだけで病院にぶち込まれたことはアレの前にもあった。
でも人間がひとり社会から消えるだけで影響ってのは相当あるみたいで、それに親や国からしてみれば、せっかくここまで投資して育ててきたのに死なれたら回収できない、と、そういう思考になって当然だし、やっぱりいろんな人に迷惑がかかりそう。
基本的に僕は「されて嫌なことはしない」スタンスの人なので、多くの人に不快な感情を与えるなら死ぬのもよくないんだろうなあと思ってしまうけど、それ以上に自分が苦しいと感じたんだったらやっぱり死ぬこともやぶさかではないし、実際に今死にたいな。ダメだまた死にたくなってきた。
多分このブログ書いてるの大分自傷行為みたいなところあるな。皆さん笑ってください、こいつ精神状態おかしいで~って。
んまあこんな精神状態になってるのは、紛れもなく水曜の遊戯ライブと土曜の弁論大会のせい、というかそこでの自分の行いのせいなんですが、ちょっと書いていきましょうか。
ちなみにここまでで5100文字です。バカじゃねえの??????
遊戯でギターを弾いて、弁論大会で弁論をする。
どっちも自己顕示欲が自分を動かしているところはある。
でもこれは変な話で、だって自己顕示したい欲があるなら、ある程度自分に顕示できるほどの自信があるわけで、浅島義俊っていう存在を許せない、殺したいほど憎んでいる人間がどうして浅島義俊を見せびらかしたいかというと、ギターとスピーチ以外での成功体験がマジでないからだと思う。別に成功体験が明確にあるわけじゃないんだけど、他がダメすぎて相対的に自分の中での価値があがっているんじゃないだろうかと、そういう説を持っている。
そんな中、この2つに関するビッグイベントがたまたま日程的に被ってしまって、僕は両方をしないといけなくなった。で、結局どっちも中途半端なままになり、遊戯ライブではスコアを開いたまま弾いてもうまくできなかったし、弁論大会では想定質問のツメの甘さが露呈して顰蹙を買ったりした。
特に成功体験があるわけでもないのに特に自信に思っていた2つについて、ほぼタイムラグなしで両方ともボコボコにされてしまった。だから今、僕は結構危ない状態にいる。そのことをよく自覚している。
上で僕は、自分のメンタルがヤバいときはタスクを詰め詰めにして地面に足を縛りつける、ということを書いたけど、まさにその重めのタスクがライブと弁論だったわけで、いうなればそれを同時に失ってしまった。しばらくは【生活】に精を出さなければならない。
強迫観念にかられながら生活をしてるけど、何に追われてるのかがはっきりしないし、マジで追われてるタスクが変に埋もれるせいで生活が破綻しそう
— 浅島 義俊 (@asadziman) 2019年7月4日
隙間時間が出来るのが怖いからタスク詰め詰めにしてるし今だって隙間時間じゃねえんだけどなんも手に着かない
— 浅島 義俊 (@asadziman) 2019年7月4日
女々しいことを書くけれど、弁論大会に出た時点で、割と僕はボロボロだった。
金→土は二時間寝て、土→日は三時間寝た。家の中でゴタゴタがあったりして時間が取れなかった。生きるのが下手。体調もウルトラ悪かったけど大会に出るにあたってのプレッシャーも凄まじいものがあって、頻繁にトイレに行って吐きかけたりしていた。
自信のある人、訴えたいことが強いひとがたくさんいるなかで、僕も訴えたいことは強くあったけど、それでも気圧されるところがあった。ただでさえ弱っていたのにますます弱ってしまった。色を主張して存在感をアピールしないといけないのに、僕はとても透明な弁士になってしまっていた。
僕の話した「未回収」は、僕にとっては真剣な話だけど、あの会場にいた多くの人達にとっては面白おかしいものだと受け止められたみたいだ。本来の想定ではもっと低く、怖く読むはずだったんだけど、テンパって声を張ってしまったばっかりにギャグになってしまった。まずそこが悔しい。でも笑いで消化して欲しくなかった。意図的に面白くしてる部分はあったけど、あくまでアクセント的に使うつもりだった。だから「面白かった!」って感想を貰ったときはちょっとしょげた。まあでも、僕の伝え方が悪かった、が100だから、仕方ない。
僕の存在に気付いて欲しかった。無視されてきた人間が、フェアにスポットライトを浴びることができる稀な場所が、演台だ。僕は主張した。訴えた。心臓は早まり呼吸はあがり、登壇する前にもお茶をゴクゴク飲んでいた。他の弁士だって大概そんなもんだと思う。
生きていて、話せる。それに気付いて、聴いて欲しかった。でも僕は初めてで、僕から歩み寄る術を持っていなかった。それであんな質疑応答になって、突き放しているような印象を与えてしまった。審査委員からの評価も最悪で、高圧的だ、高慢だと批判されてしまった。僕はずっと怯えながらあそこに立っていたのに。
僕は自分の色を知ってほしくなってしまった。自分の思いを伝えたくなってしまった。ここにいるぞ、と大きな声で言いたい。でもふと我に返ることがある。僕の色とはなんだろう。今までさんざん汚されてきた自我を僕の本質とするのなら、とても汚くて他人には見せられない。であるならば、なぜ僕は僕を誰かに知ってもらいたいと思うのだろうか。歩み寄ってもらえることに慣れて、自己顕示という原始的な快楽に従順になってしまったからなのだろうか。僕は理性を失ったのか。理性を失ったなら、演台に立ち弁舌を振るう資格などもうとっくにないのではないのか。
弁論もギターもダメだったら、僕には生活を続ける理由がない。
バイトも解雇になった。最早必要としてくれる存在がいない。こういう時こそ自分のことは自分で肯定してやらないといけないのに、残念ながら僕は僕が大嫌いだ。
あー殴りてえ、ムカつく、キモ
僕は男性性が嫌いだ。
僕は男性性が嫌いだって何十回も言ってる。
男がセックスに向かう時のメンタリティって、大抵の場合は「擦って出して気持ちいい」だと思う。でも女性がセックスに向かう時って、僕は女性じゃないから分からないんだけど多分「好きな人と密着できて嬉しい・落ち着く・安心する」とか、そういう心理的な安寧を重視してするんじゃないかと思っている。この場合、僕は断然女性寄りの考え方なんだけど、世の男性向けコンテンツってだいたい全部前者の欲求を満たすためにある。だからAVなんかは極めて暴力的だし、二次元とかにしたって女性を下にして男に万能感を与える構図ってのがいっぱいとられてる。そういうコンテンツが気持ち悪くて気持ち悪くて仕方ない。
でも男がそういうものを求める気持ちは理解出来てしまう。男だから。男だから理解出来てしまうってことが本当に気持ち悪い。
できることなら女性に性転換したいんだけど、16くらいまでにやっておかないと手遅れで、僕はもう21なので打つ手なしなんだよな。しかもMtFとかでもなしに性転換しようだなんて、そんなの怒られるに決まっている。
ここで書くことでもないけど、女性の方には、セックスが承認欲求や肯定感を得るのに手っ取り早いとか、確かに事実としてあるにしてもあんまり思わないでほしい。自分の身体を大事にして欲しい。って書いてもこれは僕のエゴなんだよな。分かってて搾取されにいく人を止めたところで、それでその人が幸せになれる保証を僕はできないんだよな。
あなたみたいな女性を何人か知っています。僕にはあまり理解できませんし深く同情するのも難しいです。ただ僕はめちゃくちゃ寂しがりやなので、もし僕が女性に生まれていれば同じようなことをしまくっていたと#マシュマロを投げ合おうhttps://t.co/AgrFhXHRTE pic.twitter.com/70IuYjnoYo
— 浅島 義俊 (@asadziman) 2019年6月15日
押し潰しながら生活しています。もし投書なさったことが事実ならこんなに羨ましいことはありませんが、その経験があなたの今後の生活を潤わせる予感がない。
— 浅島 義俊 (@asadziman) 2019年6月15日
人は刹那的になると破滅へ向かうと思います。会ってお話を伺いたいですが、きっとお恥ずかしいことでしょうから私からは遠慮しておきます。
すれば、そのうちあなたの内面に触れ、深く愛したいと思ってくれる男性も現れましょう。僕からできるアドバイスはなにもありませんが、もし文末に仰られたような愛を希求されるのであれば、頑張ってくださいね。応援しています。
— 浅島 義俊 (@asadziman) 2019年6月15日
若い女性に「若い女性」をどうか売り物にしないでって言いたい気持ちと、いや自分が持ってるものをどう使おうがその人の勝手やろって気持ちとがある
— 浅島 義俊 (@asadziman) 2019年7月4日
不幸な人を増やしたくない気持ちと、僕が不幸になると決めつけてるだけで当事者の視点からみると決してそうとは言い切れないかもしれないからなんともいえない、という気持ちとがある
— 浅島 義俊 (@asadziman) 2019年7月4日
これも重ねてエゴなんだけど、本当に自分に自信がなくなって、自己肯定感がヤバくなったり至急承認欲求が必要になったりした場合は、僕にDMしてください。本当はお話をじっくり伺っていいところを探したり問題の解決を手伝ったりしたいのですけど、そうも言っていられない場合が往々にしてあるのが人間だと思います。セックスのセックス抜きをしましょう。暴力を振るわれて搾取されるくらいだったら僕を使ってください。男性でも女性でも構いません。それまで僕が生きていたらですけど・・・。
僕は人間のプロじゃないので、上手な生き方なんか分かんないです。ただ、人生の中の選択に正解・不正解があっても、人生まるごと不正解って人はまずいないと思っているので、その人の生き方の中の正しい部分を見つけて、これを増やせるといいね、って、そういうアドバイスは出来ます。
— 浅島 義俊 (@asadziman) 2019年7月2日
(理想を言えばこう)
話がズレまくった。
自分が嫌いな理由は山のようにあるけれど、もうこれはとやかく言ったって仕方のないことだ。
もっと社会には死ぬことに寛容になってほしいというお気持ちがある。そういう意味で春秋杯でのやんすとくんの「他人のエゴで死にたい人を止めるな」って弁論は胸を打つものがあった。
やんすとくんは「生活に価値を見いだせない人にとって生活を続けることほど苦痛なことはなく、生活を強制することは相手を拷問にかけることと同じだ」って趣旨のことを言ってたと思う。僕の場合は、将来の自分の姿や状態が想像できず、そこに向かうことができない=どこにどう着地するか照準を合わせられないから前に進むことができない、ってのがあって、ともかく自分の理想とする世界にとって自分が邪魔というか、それに併せて僕の好きな人たち(「好きな人が出来た」の文脈ではない)が幸せになるには僕がいないほうがよさそう、と思うところも多々あるので(男が嫌い→まず自分の手でひとり殺したい 等)目指すところがない/消えてるままズルズル続けるくらいならいっそ終わらせてしまいたい、でも終わらせたいという気持ちが漠然としているので、それとは別に希死念慮が強まった(自分に対する生理的嫌悪が強まった)時に「生活に価値を見いだせない」気持ちがブーストをかけるのかなと思ってる。そうなってる時に事情を知らない他人が「死ぬな!」って言ったって、ねぇ・・・。
書きながらどんどん気持ちが沈んできた。このブログ書きながら三回目の波の下振れだ。
ここ一週間は性欲との戦いだった。
極めて禁欲的な生活を送っていたけど、普段僕と関わりがある一部の人は、僕の性欲がめちゃくちゃ強いことを知っていると思う。
普段は抑えるために、気休め程度とはいえ豆乳をガブガブ飲んでいるのだけど、女性ホルモンが増えるとメンタルが不安定になるというのは世の中的に広く言われていることらしく、実際豆乳ガブガブ飲むとちょっとのことでイラつくようになったりはしていたので(バイアスがかかっていたかはともかく)一週間豆乳を抑える生活をし、性欲処理も抑えた。
普通に忙しかったから虚無の時間はあまりなかったのだけど、それでも少し虚無ることはあって、吐きそうになったりしていた。涙もろくなったのは豆乳を止めても戻らないみたいで、結構ちょっとしたことで泣いたりしてた。
僕は虚無った時に好きな人のことを考えて気を散らすのだけど、性欲が溜まってる状態で好きな人のことを思い浮かべるのは自殺行為なのでしないつもりだった。でもこのあいだ虚無った時、ナチュラルに想像してしまったから大変、そこからしばらくはその人のことしか考えられないアホになっていた。
生きづれえなあ、生きるの本当に下手だな。
どんどん感情的になっていく気がする。
理性の仮面で武装していたはずなのに、どんどん剥がれ落ちていく気がする。
僕の本性を他人に悟られたくない。でもどうやらダメみたいだ。
他人と関わっていくごとに、自分の程度の低さをますます自覚しなければならなくなる。尊敬できる人が幸いにも何人もいる。僕ができることは少ない。とかく独りよがりになりがちだ。
ある人に「最近壁を感じるな」と言われてしまった。僕は誰も拒んでいないはずなのに、僕に壁を感じられてしまうのは何故だろう。表面だけをなぞって仲良くしてくれる人がたくさんいて、そこに居心地のよさを感じていたはずなのに、僕のほうからより深い仲の友人を希求するようになって、結果仲良くなれそうになった途端に、自分の内面を隠したい、本性を悟られたくないと思うばかりに拒絶してしまうのなら、それは身勝手なことだ。
生活のモチベが外的要因によるものしかない。
家を借りるのも失業手当を受け取るのもずっと先延ばしにしつづけている。先延ばしにして割りを食ってるのは確実に僕だけだ。僕は自分が傷つかないように取るべき行動すら投げっぱなしにしている。僕は僕の生存に意欲がないのか。
じゃあなんで僕は生きてんだろうな。
生活の価値がどんどん落ちていく。