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法政大学春秋杯弁論大会の総括

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 にっちもさっちもいかない!

 こんな時はドクターペッパーを飲めばゴキゲンになれる。

 今大会のレセプションは2回部屋分けがあった。ほっといても寒いのにわざわざキンキンに冷やしたドクターペッパーを冷蔵庫から取り出して、一時間くらいzoomに興じていた。

  大会運営に当たっていた法政の2年は、一様に晴れ晴れとしていた。紆余曲折があったろうし、衝突だってしたのだろう。いろいろなところでいろいろな噂を聞いていたが、僕にとって春秋杯は思い入れのある大会のひとつなので、見えてる範囲でもなんとか綺麗に収まったように見えて嬉しかった。

 

 

 

 さて。

 今大会は弁士が4人しかいない。色々あった。ここに詳らかにすることで、誰かを傷つけるのは嫌なので、僕の手によっては伝えない。

 4人でも弁士と審査員と聴衆がいれば弁論大会になる。しかし大抵の弁論大会では政策弁論が主だって展開される。政策弁論とは、文字通り政策を挙げる弁論である。行政の穴を突き、解決策を提示し、その方法について賛否を聴衆に諮る。スタンダードな弁論は、まさに社会の矛盾を公にしたり、省みられなかった弱者にスポットライトを当てたりすることだろう。そして多くの弁士が、こういった社会正義の実現を志向して弁論界の門戸を叩く。

 一方でこれと対になる弁論方式がある。価値弁論だ。価値弁論は価値観について弁論をする。特に政策がおかれず、聴衆個人の意識改革を目標に説得を試みる。複雑で、難易度が高く、審査する側にも技量が要る。

 近年だと価値弁論は東京大学お家芸だった。他の部会は大抵、部会として政策弁に傾くことが多い。特に価値弁を重視する部会だと、他には学習院大学くらいしか思い浮かばない。

 そういうわけだったので、今大会で私は驚いた。弁士4人のうち、半分が価値弁論をしたのである。

 価値弁論は、ネガティブに捉えるなら「聴衆を納得させられるだけの政策を提示できず、しかし理念は共感に足るもの(のはず)だから、理念だけ伝えてしまおう」という「政策弁論の出来損ない」であることが、往々にしてある。そういうものだから、価値弁論というだけで食わず嫌いをする人や、逆に積極的に食いついてやろうという人が観測される。政策弁論に比べて難易度が高いのは、そういう理由もある。

 そこで今回の大会だ。春秋杯は2年生以上が出る大会で、例年の大会時期も早い。弁論界の新参者に「弁論かくあるべき」を示せるような弁論が期待される。伝統的にそういう性質をもった大会の最中に、これだけ多くの価値弁が集結するというのは、大会としては弁士不足であった中でも「春秋杯も名前が売れてきたなあ」という感慨を見出すことができる。(もっとも名前自体はよく知れた名門大会であるわけだが)

 価値弁を評価できるほどの技量が私にはない。自信がない。3年とはいえ、二年の途中から「弁論界」にやってきた人間としては、評価に足る経験を積んできたとはいえない。だから今回の記事はより「感想」じみたものになってしまうと思うが、何卒お許し願いたい。

 

 審査員の全体講評はシンプルだった。

・論の展開が明快で聞き手に伝わりやすい
・新規性がないのに、過去の分析が含まれていない

の二点のみ。弁士ごとにフィードバック用のシートが配られているはずだが、まあ私の関知するところではないので、私から見えていたことのみ書いていこうと思う。

 では早速。

 

 

第一弁士 法政大学「和の心」

 日本人は貧乏になった。貧乏になった原因はたくさんあるだろうが、竹中平蔵のような悪代官が、非正規雇用制度を駆使した人身売買で儲け、より儲けるために政権の中枢に入り込んだりしている。許せない!!

 ・・・という強い批判こそしなかったものの、弁士は非正規雇用の貧困を挙げ、彼らをあげつらう世間の目を憂いた。全く同感だ。

 非正規雇用で働く多くの人が、非正規雇用で働かざるを得ないからそうしているに過ぎない。当初の制度設計の時は、国民の柔軟で多様な働き方を想定していたのかもしれないが、実態はひたすら雇用主を利し、労働者からない金をむしり取るようなものになっている。

 非正規雇用に「陥っている」人々は、学がなかったり、技術がなかったり、家庭に拘束されていたりしていて、それを自己責任だと非難するのは間違っている。間違っているはずなのだが、日本人は積極的に非正規雇用をバカにする。こんなことは郊外の小売店を何件かブラブラしてれば分かる。客は高圧的で、社員も高圧的。自己肯定感を切り売りしてなけなしの日銭を稼ぎ、スキルや自尊心といった、高級な職であれば当たり前に得られるはずのものを、決して同じ量の努力では得られない。そういう死にものぐるいの仕事をしている彼らに、市民はなんのリスペクトも示さない。市民が彼らの痛みを知らないのも、その理由のひとつだろう。

 このままならブルジョワ批判みたいになってしまうが、日本特有の現象として「なぜか」低級の職につく人同士でお互いをバカにするものがある。これは一体なんなんだろう。決して上級国民でもない多くの市民が、自分たちより下というだけで単純労働者を蔑んではいないか。接客業を軽視していないか。なぜ「本人の努力が足りないからそんな仕事しかできないんだ」という思考に、こんなにも多くの日本人が陥るのか。

 これを一体どうやって解決するのか!? とみんなが注目していたところに弁士から出されたアンサーはそう! 「和の心」。

 レセでも直接言ったか言わなかったか忘れたが、上に書いた弱者排除の論理はどっちかといえば「和の心」に基づくものではないのか。

 和の定義にもよるだろうが、それが日本的な価値観のことを指すのだとしたら(実際弁士は日本の伝統的な価値観が、みたいな話をしていた)、弁士の認識は誤りである。和の心が都会よりも根ざしているはずの地方に目を向ければ、コロナ患者への投石、嫌がらせビラの散布など、本人にとっては不可抗力であったはずのことに対して非難したり、あまつさえ制裁を加えようとする動きが都会より苛烈であることに気づくはずだ。これについて僕は、和の心に照らして考えるなら、まあそうなるよねと思っている。

 村八分という伝統的な考え方がある。これは共同体の一員として不適格だと認められたものを徹底的に追い込み、コミュニティから消し去ろうとする思考、また営みである。

 日本人は陰湿でいじめが好きな民族だ。なんでそうなのかは様々に説明が試みられているところであるが、要は「自分がいじめられないために、常に誰かをいじめることで、いじめる側でありつづける」ことで安心感を得ているわけで、逆にその和に加わらないと自分が糾弾されかねないと日本人的嗅覚が分からせているのであろう。

 自分より立場の悪い人間を貶め続けていないと、手を抜いた時に自分が貶められる側にされかねない。そういう恐怖こそが和の正体であり、また和の心の根幹を成すものだとしたら、こんなに空虚なことはない。

 しかし弁士ばかりを批判するわけにもいかない。和の心があたかも清廉で合理的であるかのような物言いが世の中に多すぎる。日本的な優しさって一体なんだ。日本人全体がやんわりと保守的な思想を持ちがちな中で、人口に膾炙したマーケティングをやろうとした成れの果てが、古来の価値観ほどよいみたいなふわふわとした標語、外見だけのアイデンティティの形成に繋がっているんではないか。そういう意味では弁士もまた電通竹中平蔵の被害者なのではないか。

 みたいなことをぐるぐる考えながら弁論を聞いていました。要は「和の心」ってワードが引っかかっただけで、それがどういうものを指す言葉なのかをもっときちんと定義したり、あるいは別の言葉を引けたりしていたら、質疑で勝ちにいけたかもしれませんね。

 一発目からパンチのある弁論でした。声調も法政仕込みの起伏のあるもので、レセのお話も面白かった。是非今度飲みにいきましょう。そして日本のあるべき姿について語らいましょう。町田来れる?

 

 

第二弁士 日本大学「保育の分水嶺」(準優勝)

 君の原稿を読ませてもらったのはあの夏の日の、雨が降ったり止んだりする渋谷だったね。

 國學院近くのbosch cafeまで来てもらって、長々と世間話などをしたことを覚えています。

 僕は既に君の原稿を読んでいたので、変なことは言わないほうがいいのかなと思って、質疑応答の時も静かにしていました。まあ、特に質問したいこともなかったけれどもね。

 内容についてだが、現状の保育無償化だと認可保育園のみで、認可外保育園に児童を通わせる家庭は「共働きのみ」「3万ちょっと」補助金がもらえるだけで、しかも専業主婦家庭はなんのサポートもない、これはおかしいのではないか、というものだった。

 弁士の説明を引くなら、認可外保育園と呼ばれるものでも、その実行政による監督や指導が入っていて、従わなければペナルティもあるし、教育方法に独自性があるというだけで、扱いにこれだけ差を設けるのはおかしいのではないだろうか。これは僕もそう思う。

 そもそも認可保育園の数は足りていない。待機児童がこれだけ日本中で溢れている中で、待機児童ゼロを実現するには認可外保育園によるサポートも不可欠のはずである。行政は認可外というだけで毛嫌いせずに、現状枠が足りていないのだから、枠作りに貢献してくれていることをとっとと認めて、その分だけの支援をしてもいいように思う。

 で、弁士も多分そういう意図で弁論をしていたように思う。だからこそ出てきた政策が「補助金の程度を均せ」というものだったのだろう。

 しかし政策実現性にこだわるあまり、これだけ予算が浮きます!というのを強調したのがよくなかった。聴衆と共有できた「待機児童問題は深刻だ」という問題意識に対して、自分から喧嘩を売りに言ってしまった。弁士の言い方だと「認可保育園は恵まれているのだから恵まれていない方に合わせろ」というやっかみに取られかねない。

 全体的によく練られた質のいい政策弁論だったことに変わりはないが、しかしアプローチの仕方というか「誰を敵に据えて戦うか」の部分の選択がブレていたように思う。そこだけマジで惜しい。

 厚労省にプレゼンしにいくならよかったかもしれないが、ここは行政を敵と思うものが集まる弁論大会であった。新弁のときにも見られた失敗だが、誰に聞かせたいのか、その結果その相手にどういう意識の変化をさせたいのかのビジョンが突き詰められていなかった、ように思う。なんて、僕が言えるほどそれが出来ているわけじゃないんですけどね。

 コロナ禍で大変な中よくやってくれたよ。初の対外試合で準優勝というのは立派だ。おめでとう!!!

 

 

第三弁士 明治大学「日本」(第三席)

 ここで国粋弁論が見られるとはね・・・。

 赤井益久先生の「グローバルはローカルとローカルのすり合わせ」って言葉を引いていたけど、それはこれのことかな?

www.kokugakuin.ac.jp

 愛国心を持っていない人間は海外で舐められるという話、僕もあちこちで聞くし、多分そうなんだろうなあと思っている。僕のTwitterのFFには「何よりも愛国心っていう概念が憎い」っていう人がいるのだけど、逆に君は「何よりも愛国心が憎い人が憎い」って感じなのかしら。引き合わせないほうがよさそうね・・・。

 愛国心がもたらす功罪はいろいろあって、まあよくないことに目を向けるならファッショ的になりがちーとか人間の価値が省みられなくなるーとか色々あるんだろうけど、プラスの部分を考えるとこっちもいろいろあって、特に「愛国心すら持てないやつはヤバい」みたいな文化が欧米にあって、彼らに追いつくことをグローバル化とするなら、日本人が愛国心のないまま世界に飛び出すのは危険だとする言説は理解できる。

 残念ながら僕はこのことについて意見を持っていない。よく分からない。日本から出たことがないし、出ようとも思わない。それは日本が好きだからではなく、外にまで出る元気がないだけ。将来的には自分のルーツやアイデンティティについて考える機会はあるのかもしれないけど、今のところ興味がそもそもない。

 そういう人にとって「日本人としての誇りを持て!」みたいな言説は鬱陶しく感じる。そりゃ僕はコロナ前なら靖国に月イチで行ってたし、地元の神社や庚申塚にもお参りしてるし、この国を作った先人たちには感謝してるし、ご先祖様を愛している。この国の伝統的な文化も好きだ。しかしそれは「その人たち」を個々に評価したり「その文化」そのものを眼差したりしているだけで「日本」という漠然とした総体に対して全肯定で向かうものではない。だから「日本」というものを愛することに同意を求められると、いやそうじゃなくて・・・ってなっちゃう。

 愛国心のボーダーをどこに引くかってのは、それこそ「多様性」として認められるべきだし、好きじゃない部分まで愛せと言われるものではない。でも弁士の論だとそれが曖昧だった。日本人なら日本を愛せというが、どう愛せばいいのか分からない。軸を持てとしきりに言っていたが、弁士の論からは軸が見えなかった。言い方は悪いけど、詰めが甘いといえばそう。

 弁士の理念に沿うメリットが既に問題意識を持っている人にしかなく、かつ理念が抽象的な論に終始していると、聴衆は納得できない。納得するためのフックが見つからない。問題意識を持たないまま聞いていると、置いてけぼり感を食らう。

 この議論で置いていく人をゼロにするのはどだい無理な話なので、どちらかというとテーマそのものが高難易度で、高難易度であるがゆえに調理しきれていなかった感がある。時間があれば解決できたのか、はたまたそうでないのかは分からない。けれど質疑を見る感じだと、審査員が誰も論についていけてなかった感じがした。

 音割れしてたけど声調はとてもよかったな。もっと問題を提示するパートを前側に詰めて、早めに畳み掛けるように論点を取捨選択できていたらよかったかも。価値弁論はとくに説得が難しいから、短期決戦で行かないと聞いてる側が反発しちゃうので。

 近いうちに飲みにいきましょう。場所は歌舞伎町か、渋谷か・・・町田でもいいよ!

 

 

第四弁士 慶應義塾大学「なぜ森は動くのか」

 割愛

 

 

第五弁士 法政大学「柱」(優勝)

 一番共感を得やすい話題だった。問題意識に新規性はなかったけど、言ってることはマジでそう。

 日本は基礎研究を蔑ろにしすぎていて、このままだとノーベル賞が取れない国になる。それを回避するには大学の運営費交付金を増やし、増額分を人件費に充てないといけない、と、概ねこのような弁論だった。

 現状分析やデータの引き方は丁寧だったし、説得も原稿をよく練ったんだなあって感じがした。これで練ってなかったら恥ずかしいけど、君の技量があったってことで。

 質疑でも挙がっていたけど、これは国立大学に限定した話だから、私立大学の問題がすっぽり抜け落ちていた。これと人文科学の話は質疑で出る可能性が高いことは分かっていただろうから、もうちょっとしゃんとした回答が欲しかった。

 北大の関連質問への回答が惜しかった。私大を淘汰するのかって指摘に対して、私大も大切だと答えてしまった。切って捨てるのもひとつの選択だっただろうけど、僕だったら教育のトリクルダウンというか、国立大学の研究能力の水準が上がれば私学も追いつかざるを得なくなるから大学全体にとってメリットがあるとか、他にもっともらしい回答は出来たと思う。まあそういう想定質疑が用意できるくらいなら、もう原稿の中に盛り込んでいるんだろうな。

 聴衆で問題意識がある程度醸造されているテーマを選ぶと、問題提起で一体感を得られるけど、これは何か変なことを言うとまるごとひっくり返る諸刃の剣。弁士はうまくそのまま突っ走れたけど、こういう大会形式だからこそできたのかしら。でも多分きっと弁士が上手だったからでしょうね。声調もよく、質疑もハキハキとしていた。

 ひとつ文句をつけるなら、全弁士の中で一番、演題と内容が噛み合っていなかった。演題から内容を類推できた人はいないんじゃなかろうか。現役生が審査員をやる大会だからそういう批判は出なかったけど、OBOGが審査をする大会だったら減点対象になっていた気がする。

 まあ優勝した彼にこういう指摘は無粋ですね。おめでとうございます。こういう時でなかなか対面でワイワイ感想戦をやることはできないですけど、いつかきちんと祝杯を上げられる日を楽しみにしています。あ、町田でやるなら呼んでくださいね!

 

 

 

 

 私の弁士人生は春秋杯から始まった。

 町田市は東京都に不法占拠されているから即刻神奈川に返せ! などと勇んだことを言ったが、審査員に「町田ってどこ?」と聞かれて全てが終わった。懐かしい。

 そういえば法政大学があるのは町田市内だが、どちらかというと西の端っこあたりで、そもそも法政の人相手に原町田史観で語ってもピンときてもらえなかったはずだ。

 こういう分析の甘さや粗さも相まってボコボコにされてしまったものだが、今日登壇した弁士は逞しい。これからの活躍も、期待するーー!!って感じです。

 弁論大会のお祭り感が大好きなので、またひょっこり見に来たいと思います。いやはや、今日はありがとうございました。皆様お疲れ様でした!!

 


 

 来週21日は、いよいよ【國學院大學学長杯争奪 全国学生弁論大会】です!

 私も登壇しますし、全国(?)からアツい弁士が揃い踏みしています!

 大会運営頑張りますので、当日は是非是非ご視聴なさってください! 実況スレでの感想もDMでの感想もお待ちしております!!

 

 

私の原稿テーマですか?

そうですねえ、ヒントを書いておくと

美空ひばり

手塚治虫

【ばかみたい】

あたりが登場する予定です。

お楽しみに!!