朝自慢

北朝鮮のアイドルと海産物について

これまでの私とこれからの私について

 こんなことを決めつけるのは時期尚早かもしれないけど、阿川くんは今まで僕がエンカウントした人間の中でもトップクラスに「出来た人」だと思っているので、そんな人がこのような得体の知れない人間に対してそれこそ「思考を知りたい」という思考に至ったことについて非常に不思議だなぁと思ったし、その上で奇特な人(誤用)もいるもんだなあと少し思ったりもした。

 人から関心を持たれる時というのは大概失敗した時だと思うし、まあ今回も色々と失敗したから関心を持たれていると思うんだけど、対象にされた人格の観察を完全に相手の独力に任せて考察だけ受け取ろうとするのはアドバイスを貰おうとする人間の心構えとして不適当だろう。なのでデフラグついでに少し自分という人間について整理してみたい。

 都合のいいことに、今は大分酔っているので筆がスラスラ進む。推敲が疎かになっているので誤字脱字がそれなりに発生すると思うが、まあ気長に見といて欲しい。

 


高校まで

 僕は人付き合いというものがからきし駄目で、そりゃもう母さんのお腹の中にいた頃から人間が苦手だったんだろうなという幼少期を過ごしてきた。人様に自慢できるようなことは何一つ成せなかったし、毒のシャワーを浴びたところで毒の耐性を持てるようにはならなかった。

 小中学校はシンプルに地獄だった。思い出したくも書きたくもないので、どんなことがあったのかはミドリカワ書房の歌に説明を任せる。

 

 

 

 

 幸い父がエンジニアだったので機械にふれる機会(激うまギャグ)が日常的にあって、僕はコンピュータにすっかりお熱になっていた。僕は中二の頃にはアキバの男になっていて、しんどい現実から逃避するようにウェブ空間に逃げ込むようになるのだが、この頃から「自分に関わるあらゆることを自動化させたい」と思うようになった。

 

 

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(中二で自作してから壊れた箇所を交換することで生き永らえてきた限界パソコン君)

 

 

 すべてを機械的に処理することで、人との接点を無くして、人に起因する感情の起伏を取っ払いたいと願った。内向的な自分にはそれが一番よいことだと思えていた。

 AmazonとYodobashiに生活の一切を任せて細々と暮らしていきたいと願っていた。しかし生活のためには多少なりとも収入がなくてはならない。収入のためには働かなくてはならないし、働くためには勉強しなきゃならない。勉強するためには人とかかわらなくてはならない。現実は非情だった。

 

 僕はおちこぼれウンチ高校に入学してウンチとして生活していた。しんどいこともあったけど楽しいこともあった。もう中学までで起きたほとんどのことを忘れるようにしたかったので、ここまでの一切の関係を切り捨てて高校生活に専念しようとした。友達もそれなりにできた。

 僕はITフリークに片足を突っ込む意識はあっても所謂世間一般でいうところの「オタク」という層には括られたくないと思っていたし、途中からアニメを見るようになっても、どこか現実社会にはない清廉さのようなものを求め続けていた気がする。性欲が透けて見えないコンテンツほど美しいと思っていたし、エロゲ原作のテレビアニメがこんなにあるんだと知った時には界隈に落胆したりもした。だからそちらの人たちと交わろうとは特に思わなかったし、サブカルチャーの話が出来る人の中から交友関係を見出そうとしてもそれなりの選別をしていた。まあ最後には有耶無耶になってたけど。

 

 で、僕は高校時代に軽音楽部に入っていた。SiMとかワンオクとかが好きな人が多くて、ライブではみんな腕や頭を振ったりモッシュみたいなことをしてたりした。大所帯だったけど部外ではおとなしい人が多くて、よくある「軽音はヤンチャな人が多い」というイメージもあんまりないところだった。

 僕は中学時代にスッカリVOCALOIDの文化に染まっていて、東方シリーズもそれなりにプレイしていて面識があって、多分高校入学当時「ライトなオタク」くらいの自意識があったんだと思う(言うまでもなくP-MODELもめちゃくちゃ聴いていたけど)。それで遊びにいった軽音楽部で、同じくらいライトなオタクを複数人見つけた。というか僕が「発見」されて、発見したやつを中心に東方コピーバンドが結成された。

 高校一年の春にして、やっと僕の青春が始まった。

 

 一旦ここまでの僕の音楽遍歴を整理しておく。

 母さんがピアノをやっていた都合で僕もやらされることになって、小学二年生のおわりまでピアノを習っていた。実はその前にバイオリンも少しやっていたみたいだけど全く覚えていない。

 それから僕は特別音楽に関心を抱くことはなかったのだけど、小四で不登校になったのをきっかけにパソコンを使った作曲をするようになる。まだピアノの知識が朧げに残っていた当時であっても、それをパソコン上で再現しようというのはかなり難儀した。結局技術的なものはほとんど学べなかったけど、ともかく僕と機械音楽のファーストコンタクトはここにあった。

 小学校は休み休みで卒業した。母さんは旧式の人で、僕が小学校に行きたくないというのを甘えだと一蹴して相手にしなかったけど、一回目の自殺未遂で先生が介入するようになると不承不承という感じで僕を施設に通わせてくれるようになった。結局これは中学まで続いた。

 僕の気が休まるのは音楽を聞いている時と作っている時に絞られた。音楽はボカロばかり聞いていたし、作曲もフリーソフトの限界に挑むがごとき限界作業の繰り返しだった。モノが出来上がる前に精神がくたばるような煩わしい作業の連続だったが、それでも止めることがなかったのは、ひとえに現実が辛すぎたというのがあった。

 

 話を戻す。

 作曲している上で一番煩わしいのはドラムのリズムを考えるときだと思っている。で、次点でコード進行を作る時だと思う。

 正直主旋律とベースは適当に作っててもなんとかなる。でもドラムは実機を知らないとパターンが打ち込めない。前提知識なしで自力でやっちゃうと現実で再現不能なスコアになる。すると聴いてて違和感が出る。コードもおんなじで、普段巷にあふれている進行というのは実機で弾いたものを取ってるのがほとんどなわけで、やはりそれを真似ようと思うことは実機を再現することと同義になるので、実機との邂逅は必然というか、避けては通れない道だった。

 中学二年でDTMを買った。中学三年でボカロのライブラリを買った。安い買い物ではなかったけど、実機素人の僕に扱えるような代物ではなかったので、自然な流れで僕はギターを欲するようになった。でもただギターを持っているだけじゃ格好がつかないし、だいいち僕はボカロを買った時点で素寒貧になっていたので、親から借金をして買う必要があった。その口実として、僕は軽音楽部に入ったわけだ。

 

 軽音楽部で僕らはいちばん不真面目だった。

 僕はともかくとして、他の連中はみんなアニメ「けいおん!」を見て入ってきたような奴らだったので、何を勘違いしてか「部室でワイワイお茶して、ツマミに練習する」ということをしていた。そんなもんだからSiMのコピーをやってたバンドから練習時間を譲れと文句を言われたりした。僕もだんだん堕落していったし、機材を弄ぶようになった。具体的にはジャズコの上でテレキャスを布団にして寝る振りをしたりとか、ジャズコの上にプレイマットを敷いてカードゲームをしたりとか、ジャズコの上でトランプタワーを作ったりとか・・・

 なんでだろう。ジャズコと戯れてた記憶ばかりが出てくる。

 

 

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(書く間でもないけどこいつ)

 

 

 それでも年に数回かライブがあって発表をしなければならない。最初こそ東方のコピーをと意気込んでいた僕たちだったけど、だんだんゲーム音楽とかボカロとかアニソンとかに縛りが拡張されていって、最後の年になると全然関係ない相対性理論とかブルーハーツとかのコピーをやるようになっていた。

 みんなオタクカルチャーだけを見てあれやりたいこれやりたいというから、僕が大体曲を調達してきて「これアニソンだから!」とか言って無理やり説き伏せて体裁を整えていた気がする。例えば僕がアジカンの「或る街の群青」を持ってきたときには、これが鉄コン筋クリートというアニメ映画の主題歌だったことを持ち出して「これはアニソン!」と強弁し、他の部員に「う~ん、これはアニソン!w」と言わせたりしていた。

 

 ある回で、珍しくベースの子がボカロ曲を持ってきた。当時は僕がメロディギターだったから、僕がギターボーカルをしてやろうということになっていたのだけれど、一番高いところの声が出なかったので、リードギターの彼にボーカルを任せることになった。

 ちょっとこれはトラウマで、僕はすっかりこれを歌うつもりでいたから、話し合いの末でも降板することになったのはずっと心残りだった。だから家でこっそり弾き語りの練習をしていたりしたのだけれど、これを先の遊戯合宿で披露して歴史的爆死を遂げたことは皆さん周知の通りだと思う。

 

 

(原曲これでした)

 

 

 というのも、当初はボーカル専任のメンバーがいたのだが、この曲をやる時に前後して脱退していた。女々しくなるので詳細は省くが、ともかくそいつがトラブルを起こしてライブハウスを出禁になった。トラブルを起こしたのはそいつだけだったけどこれが軽音楽部全体の問題になった。というのも、当時の校則では部員から特別にお金を集めて他所の施設を借りるというのは禁止になっていたものだから、軽音楽部がハコを借りてライブすることを顧問をはじめとする教職員は委細を知った上で「知らない振り」をして黙認状態を保っていたのだが、このトラブルがライブハウスと学校を公に繋ぎかけるような自体に発展してしまって、軽音楽部の存続そのものが危うくなるという事態に発展してしまったのだ。

 僕は問題の解決のために終始した。僕だけじゃなくてバンドメンバー全員が何らかの形で動いていた。僕は学校に来ないそいつの代わりに何回も頭を下げた。結局ケジメとして、僕らのバンドが今後一切外のライブに出ないということを条件に場を収めた。

 実は僕のいたバンドのベースとリードは、あとから入ってきた部員と一緒にマンウィズのコピーを中心にしたバンドをやっていて、こちらは出禁になっていなかった。彼らは引き続きライブに出ることが出来たのだけど、そこに入っていなかった僕とドラムだけが対外発表の機会をゴソッと失った。人柱に使われたって考えるのはやりすぎか。

 他にも細かいトラブルがいくつも起こっていて、途中から半ばフロントマン扱いだった僕があちこちで怒られたり調整したりしているうちに、体毛が抜けたり貧血気味になったりと体調に影響が出始めた。最初にも書いたとおり、僕はそもそも人付き合いが苦手で、バンド内でお互いにあまり干渉しなかったうちならまだしも、そのあとトラブルの対処に追われるという状況になっていくにつれて、軽音楽部はだんだんと僕の生存に適さない環境になっていった。

 で、なんかだんだんギターも嫌いになっていって、浪人中は全く触らなくなり、代わりにシンセばかりをかわいがっていた。

 

 


浪人中

 浪人してた頃が人生で一番気楽だった。勉強だけしてればいいんだもん。

 世界史と国語なんか面白いように点数が取れるし、英語だって「勉強する振り」をする手段が無限にあるもんだから、簡単に勉強した気になることができた。

 この頃の音楽的な志向は専らBGMとしての色合いが強かったと思う。P-MODELに熱中していた中高生時代を振り返って、テクノロック・テクノポップをよく聴いたりしていた。YMOとかヒカシューとかジャンジャックペリーとか。

 

 

 

 

 

 だんだん嗜好が現代寄りになってくると、渋谷系テクノとか原宿系とかを聴くようになっていった。Future BassとかKawaii-Popとか言われるようなやつだ。

 

 

 どうでもいいけど、Ujicoは本当に天才だと思う。あれで僕と同じ歳なのが信じられない。彼のを聞いて、僕には音楽で身を立てるワンチャンスもないんだろうなって諦めがついたくらい。

 で、もう少しすると今度はUltraのセトリなんかを探しに行って音雲で聴いたりもしていた。洋楽はYESとかエリック・クラプトンとかを少し聴いていたけど、本格的に欧米の音楽と向き合ったのはこの頃になってからだった。

 

 

 そんなわけだからシンセを弄るのは俄然楽しくなるし、それまで使っていたSONARを捨ててスッカリLiveの民となってしまった。ライブラリもKompleteでは飽き足らず、Sylenth1とかNEXUS2を輸入したりもした。

 貯めていた高校の時のバイト代は、概ねこれらの導入で吹き飛んだ。

 

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(カナダから個人輸入したNEXUSシンセのインストーラー君)

 

  まあ音楽にデップリ浸かりながら不真面目に勉強して大金をドブに捨ててしまったわけだけど、まあ楽しかった。この頃を無限にループしたいくらい楽しかった。

 それでなんだけど。

 

大学時代

 別に大学時代っていうほど大學に来てないんだけど、それでもひとつ目安としてこう名前をつけるなら、なんか高校の繰り返しをしてるんじゃないかという怖さみたいなもんがあって。

 大學に入ってさあ何をしようってなったときに、最初に弁論部に入ることは決めていたからそれでよかったんだけど、音楽遊戯に入ることは完全に想定外で、なんたって大學に入ってギターを弾くつもりなんて全くなかったわけだから、なんかズルズルと遊戯席でダベってるうちに入らなきゃダメみたいな流れになって、そんで入ったらこんどは発表しなきゃ、合宿いかなきゃ、学祭でなきゃって感じで今日この日まで来てしまった。

 今自分がここにいるのって、本当に誰かに流されるままにしていた結果みたいなものなので、正直自分が音楽遊戯にいる資格があるかどうかが怪しい。

 僕なんか完全に音楽を途中で諦めて、そこからまあ趣味でならいいやって思って再開してる人だから、島田さんとか安斎さんみたいなマジな人たちと一緒の環境にいることが身の丈にあってないというか、なんか恥ずかしくなってくるような気がしてずっとやっていて、それでナンバガをやろう、向井秀徳になろうって意気込んでるのが実は自分では空元気振りまいてるような気持ち悪さがずっとあって、まあ確かに最近ギター熱が出てきたことは事実ではあるんだけど、実際問題法律専門職専攻と軽音サークルを兼ねるのは致命的に相性が悪いことは自明であるし、この立場を続ける限界が刻々と近づいてきていることも分かっている。

 あとなんか合宿から前後して池田くんにいろんなことを言っちゃったけどあれ本当に悪かったなって思っていて、池田くんは僕が指摘したことを真っ当なことだと言って受け取ってくれているみたいなんだけど、あんな講釈を偉そうに垂れるほど僕は偉くなくて、実際僕はここまでで何も成し遂げられていないわけで、多分僕があれを言わなければ他の言うべき人がもう少しあとで言ってくれてたのかもしれないなってずっと思っていて。

 こんな感じでいままで半年くらいの自分の行いを振り返って見ると本当に恥ずかしいことしかしてないなって思いがあって、なんかだんだん自分にキモさしか感じなくなってきて、そんでさっきのツイートに至る、と。

 他に重大な失態があったりして個人的に今ものすごく調子が悪くて、いやまあデフォの調子がこんなのなハズなのに今まで無理してたってのが少なからずあるとは思うんだけど、そんで学祭で体力もお金もなくなってメンタルもゴリゴリ削れてたところでお酒が入ったのでああなってしまった次第です。面目ないです。

 ただちょっと本当にヤバいなって思ってるのは変わらないので、これの対処に覚えがあったり経験していたりする人からお話を聞きたいと思っています。DMでもコメントでもLINEでもいいのでアドバイスをくださると嬉しいです。

 なんでですます調になってんのか分からないけど、書き始めてから三時間くらい経っちゃって、学祭の片付けが始まるまで5時間を切ってしまったので僕はこのへんで寝ます。遅刻したらごめんなさい。いやごめんなさいじゃ済まないんだけど、あの、その、すみません・・・ 以上です・・・