朝自慢

北朝鮮のアイドルと海産物について

ラーメンに関する考察

 ラーメンって、別に味を足さなくても美味しい。スルスルと食べ始めて、最後まで汁を飲めるもの。二郎系はともかくとして、醤油も味噌も豚骨も家系も、きちんと美味しいお店であるならば途中で味を変えずとも飽きずに堪能できる。
 世の中の大抵のラーメン屋には卓上調味料がある。胡椒だったりラー油だったり、大抵は辛味を弄る方向に向いている。たまに柚子胡椒なんかが置いてあると、香りの方向も変えられるのでちょっと嬉しい。
 さて、豚骨や家系なんかに行くと、卓上調味料として当たり前のようにニンニクが置いてある。
 ニンニクは劇物だ。味も香りもフッ飛んでしまう。食材としてならいざ知らず、調味料としてセットするのは考えてみればイカレた所業なのである。
 にも関わらず、平然とそこにそいつはいる。いつの間にか市民権を得た顔をして、世のラーメン屋の卓上調味料に紛れ込んでいる。何故だろう、こいつを置くラーメン屋にはプライドってものがないのか。

 

 僕はラーメンを、出されたまま最後まで食べることができる。
 でも巷に溢れているラーメン詳説本なんかを見ると、やれ飽きのくる味だの、どこまで食べたら味変を楽しもうだの、そんなことばかりが書いてある。これは今に限った話ではない。手元に父が持っている80年代のラーメン屋レビュー本があるのだが、同じようなことが書いてある。曰く、卓上調味料のレパートリーが豊富なお店を褒め、そのこだわりようなんかについてインタビューをしているのだ。
 もちろん、味で勝負している硬派なお店が、アピールのように卓上調味料ナシを貫いているのを持ち上げるページもある。しかし僕は、こと日本人のラーメン消費のシーンに於いて【飽き】がこれほどまでに重要視されている点について、興味深く思っている。
 そもそも、ラーメンの一杯といえども完成された料理であって、本来料理というものは、出されたままのものを食すのが美しい姿だと思う。個人の味覚に寄らせるために後から手を加えるのは、料理人がかわいそうとかそういうこと以前に、所作として美しくない。
 食は身体に外の物質を取り込む行為だ。高潔で清廉な営みだ。調理者の手を離れた料理に別人が手を加えるのは、その料理の意図が連続していないわけで、僕には危険に見える。実際危険ではないだろうし、あくまで僕の美意識の話なのだけど、これを奨励するかの如きレビューは、ちょっと賎しいなと思ってしまう。

 

 でも世の中にはこれが広く膾炙していて、随分と浸透を見せているのだ。では僕のほうが間違っているのだろうか。
 思うに、日本人は飽き性が強い。昔から芸能人の流行り廃りで取っても、アメリカなどと比べて日本だけ異様にサイクルが早い。PPAPなんかもそこそこ人気が持続した海外に比べて、日本の中のブームは爆速で過ぎていった。こんなことが往々にしてある。
 社会を通して変革のリズムが早いのだろう。それがいいことなのかどうかは分からないが、変わらないことに戸惑うような国民性が、食にまで影響を与えているのかもしれない。
 せいぜいほんの15分くらいの時間である。その中にもアグレッシブな変化を求めて、人々はラーメンに調味料をかけるのだろうか。ラーメン屋もラーメン屋で、最初から卓上調味料を入れることを前提にして軽い味にしているのかもしれない。変化をつけさせるための【たわみ】が、一杯の社会の中で最初から存在している気がして、なんだか恐ろしい感じがする。

 

 まあでもこの【たわみ】自体は、ラーメンに対する解釈違いを防ぐためのテクなのだろう。軽い万人受けする味にすれば、より広い癖の相手に訴えることができる。悪く取るなら妥協の産物だ。
 こんな妥協の表現、間口を広く取るための【たわみ】は、それこそ社会の至るところで見てとることができる。色々と円滑に済まそうとする努力なのだが、意志がはっきりしない場合は色々と不都合が生じる。僕もインターンの中で、優柔不断な人が工程を遅延させるさまをチラッと見かけたりした。
 【行けたら行く】【棚上げ】【なあなあ】など、日本には意志をぼやかすために用いる言葉が豊富にある。それだけ社会の要請があるから流通しているのだろうが、こういう国民性、瀬戸物の衝突を怖がるあまり『国民総粘土状態』に陥っている現代日本の病理は、時に外国人との衝突を起こす。責任逃れで不誠実な物言いと取る人もいるだろう。衝突を怖がるあまり停滞を已む無しとするようでは、経済も文化レベルも先細りで推移していくだろう。だから妥協なく判断のできる主体性を持った人間にならないと・・・などと口で言うのは簡単だが、瀬戸物を糾弾するかのような粘土共の同調圧力が蔓延るこの国では、出る杭を目指すインセンティブもあまりないのかもしれない。なんと悲しいことか・・・

 

 妥協の塊のような卓上調味料を机上に並べるラーメン屋の経営者も、社会の要請の前に己の崇高な創作をねじり潰された被害者なのかもしれない。なんか急にかわいそうに思えてきた。ひどいことを言って申し訳ありませんでした。
 ラーメンがここまで国民食として親しまれているのも、もしかしたら気楽に卓上調味料で味をカスタマイズできるからなのかもしれない。僕はこれをマイナスのことと捉えていたが、よく考えたら他の料理にはあまりない点として、ラーメンのアドバンテージと言うことができるのか。飽き性な社会と味を変えたい要請を、ラーメンという料理のみが受け止めきっている、だからこれだけバズることに成功したのか。
 ニンニクという一見とんでもない劇物も、その劇物を許せるくらい懐の広い味を最初に提示することによって、広く客をとることができる。これはもしかしたら、かなりギリギリの戦いなのかも?
 でもこれだけラーメンが社会の要請を受け止めないといけないなら、この料理が抱える大きな期待に哀愁を感じずにはいられない。より商業主義の色の強い料理なのである。大衆に近い料理の中にあって勝ち抜くには、より大衆に迎合するものを作らないといけない。調理人の意志は、資本主義に敷かれてしまっているのか。日本は自由のある国だそうだが、もし調理人の自由意志が経済性によって囚われているなら、この料理の不憫さを嘆かずにはいられない。

 

 ラーメン、なんて悲しい料理だ。アーメン。
 ニンニク入れても見た目の変化が乏しいからついつい入れすぎられてしまう哀れさに、醤油ダレのように塩辛い涙を呑むしか寄り添う術がない。
 今日もどこかでニンニク、高菜、紅生姜を入れられて食われる博多豚骨ラーメンがあるのか。ダシの味を飛ばされて、犠牲になった豚達は何を思うのだろうか。
 あー、書いてたらお腹がすいてきたな、ラーメン茹でるか。確か冷蔵庫に豆板醤があったっけ・・・