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映画「窮鼠はチーズの夢を見る」の考察と感想 ※ネタバレあり

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ケチなのでau割で入り、鑑賞券優待で食事するなどした

 歌舞伎町のTOHOシネマに行った。折しも「鬼滅の刃」フィーバーの真っ只中で、他の映画を見に行く人間は肩身が狭・・・いと思ったらそこは歌舞伎町。鬼滅の上映回数は圧倒的であったけど、他の映画にもきちんと人が来ていた。地元のファミリー向けシネコンはえらい違いだ。

  スクリーンに入ったのは上映開始時間を過ぎてから、しかしまだCMを流しているタイミングだった。客席を埋め尽くすのは女性、女性、女性。

 それもそのはず。この映画は関ジャニ∞大倉忠義と気鋭の俳優成田凌の「絡み」が話題の映画なんだから。いやまあ僕も覚悟はしていたけど、二人のファンっぽい人であったり、BL目当てっぽい人であったり、まあそういう感じの人たちでほぼ満員になっていた。

 本題に入る前に少し劇場の様子について書くと、まあ他の映画よりも若干、若干だけ鑑賞態度の悪い人が目立った。僕の左側にいた4人組の集団が、大倉くんや成田くんが出てこなかったり、あんまりクローズアップされてなかったりするシーン(特にほないこかがベラベラ喋ってるシーン)でスマホを弄ってたりした。僕も今をときめくイケメン俳優ふたりのえっちなシーンを多少なりとも目当てにしてやってきた者ではあるが、それでもあくまで「映画」の鑑賞をしにきたつもりだったので、ムッとした。盛り上がるシーンで後ろの方からヒソヒソ声がしたのもどうかと思った。

 まあ、こんなのはどうでもいいですね。

 


9月11日(金)公開/映画『窮鼠はチーズの夢を見る』90秒予告

 

 

大筋と僕の解釈

 言うまでもなく恭一(演:大倉忠義今ヶ瀬(演:成田凌を軸に話が展開していくのだが、恭一は非常に顔がよく、女性からものすごくモテていて、一方恭一もそれを理解した上で色々な女性と身体の関係を持っていった。

 本作はあくまで今ヶ瀬との関係をクローズアップして映画にしている(原作漫画は未読だが、きっと同じような流れなのだろう)が、捉えようによっては「恭一」と「その他」の絡みと「その他」の移り変わりを描いていて、今ヶ瀬も結局「恭一の相手」のひとりでしかないように見える。

 恭一と今ヶ瀬のセックスが直接描かれたシーンは、確か3回だけだったように思う。もちろん映画の中で2~3年くらいの歳月が流れていて、ふたりが同棲していた期間もそれなりに長いのだから、これ以上セックスをしているというのは当然だろうが、映画の中だけでも恭一は登場する女性ほぼ全員とセックスをしているし、最初の方に出てきた不倫相手との乱暴でねちっこいセックスはめちゃくちゃエロかった。こんなことを書いたら怒られてしまうかもしれないけど、僕からしたらこの時の恭一が一番セックスに対してがっついていたように思う。

 この映画の中で「男性同士の同性愛」が物語を進展させるファクターであったシーンは少ない。恭一は事あるごとに「お前は男なんだから」と今ヶ瀬を突き放すが、同様に突き放すなら今ヶ瀬が男である必要はなかった。他のやり取りでもこのシーンは作り得たし、なんなら男同士であることが葛藤の元になっているというよりは、恭一が積極的に今ヶ瀬を突き放すツールとして「常識」や「世間の目」を使っているようだった。禁断の~みたいな強調は決してされなかったし、ただ男女間でもあるようなセックスを、男同士に置き換えて描いていたに過ぎない。

 そういう意味で恭一の中に偏見はあんまりなくて、ただ全ての相手を同じようにまなざしていたように思う。今ヶ瀬にとって恭一が特別な相手だったにしても、恭一にとって今ヶ瀬は、一番最後のシーンまでは特別な相手ではなかった。

 その最後のシーンで今ヶ瀬が恭一にとって特別な相手になるわけだけど、この映画は130分使って念入りにその伏線を張り続ける。派手なイベントがあるわけではないけれど、時間をかけて丁寧に、恭一を追い込んでいく。

 

 

染められていく

 この映画の面白いのが――まさにこれは僕の主観であるわけだけど――最初に不倫相手とした「男女の」「背徳的な」セックスが恭一の男性的な、悪く言えば身勝手な性欲のピークで、今ヶ瀬と再会して一緒にいる時間を重ねるごとに、セックスを誰とするにしてもどんどん丁寧でしおらしい感じに変化していくところだと思う。しまいには夏生(演:ほないこか)とのラブホのシーンでは恭一は勃たなくなってしまっていたし、たまき(演:吉田志織)とのシーンでも、すっかり毒の抜けた健康的なセックスに興じている(いた)ようだった。

 この映画の大筋で語られていたのは、上に取り上げたとおり恭一の人間関係の変化と、それに伴う恭一の心情の変化であった。そして特に映画の中では暗示的であったが、恭一と今ヶ瀬の立場は徐々に入れ替わっていく。恭一が今ヶ瀬に入れ込んでいけばいくほど、今ヶ瀬以外の相手との関係を後ろめたく思っていく。この後ろめたさが「流され侍」だった恭一に意思を持たせていく。

 今ヶ瀬の心情の変化については後述するが、恭一は今ヶ瀬から一途な気持ちをぶつけられるごとに、今ヶ瀬に肩入れしていき、徐々に好意を持っていく。今ヶ瀬が「男性的な男性」として恭一の中に侵入してくること(1度目のセックスシーン)に対して、最初は「男性的な男性」として反感を持っていた恭一も、だんだんと態度を軟化させ、自分が女性側に回ること(2度目のセックスシーン)に積極的になっていく。

 たまきに離婚を申し出るシーンも、情けないといえば情けないのだが、すっかり今ヶ瀬に一途になっていて、だからこそたまきが提案してきた妥協案をキッパリと断ることができた。作中で流されっぱなしだった恭一が、ほぼ1回のみ、空気によらずまともな決断をできたシーンだと思う。

 今ヶ瀬との生活を重ねる中で、恭一は徐々に「決断できない男」から「決断できる女」に・・・って書いたらやっぱり違和感があるな。男女とかじゃなくて要は当初と真逆の人間に変貌して、その原因が今ヶ瀬であり、なんならこの変化も今ヶ瀬的であり、今ヶ瀬に染まった状態で映画が終わるのはなんかえっちじゃないですか・・・? えっ解釈違い・・・? そうですか・・・。

 

 

今ヶ瀬の自壊

 映画の冒頭では、今ヶ瀬は偏執的なまでに恭一に関心を寄せているが、恭一にとっては取引の相手でしかない。最初のセックスも一方的なものであった。

 これから徐々にふたりは接近していくわけだが、恭一が今ヶ瀬を受け入れていく一方、今ヶ瀬の態度も少しだけ変化していった。恭一が上で今ヶ瀬が下という「憧れの相手」から、中盤にかけて急速に立場が対等になっていくことで、視点そのものがだんだんと変化していくことになった。 すなわち恭一が「追いかける・奪い取る相手」から「守る・奪い取られない相手」に変わったことで、おのずと恭一に向ける態度も変える必要が出てきた。

 しかし今ヶ瀬はこれに失敗した。長らく恭一を「追いかける・奪い取る相手」として見ていたせいで、いざ自分のものになってみると、どうしていいか分からない。中盤頃から今ヶ瀬が戸惑う、感情をあらわにするシーンが増えていったが、今ヶ瀬自身も恭一とどう向き合えばいいか分からなかったのだろう。同棲は待ち望んだ幸せの日々であったはずなのに、どこまでもしつこく恭一を詮索し、つきまとい、恭一をウザがらせた。恭一を女に取られたくない不安、どうすればいいか分からない不安、自分は男だから性的魅力で女に勝てない不安が、幸せの只中であるはずの今ヶ瀬を締め付け、追い込んだ。

 劇中で「人を好きになりすぎると自分の姿が保てなくなる~」みたいなセリフが(たまきか誰かから)あったが、まさに中盤~終盤の今ヶ瀬がこれで、自分が執着するあまり却って相手との関係を壊しかねない行動を連発し、それを自分で制御することができなくなっていった。見ていて非常にグロテスクに感じたし、人間誰でもこうなりうるのだと思うとゾッとした。

 葬式のシーンでは、描かれている情報だけだとそこまでで恭一とたまきは身体の関係になっていなかったように思うが、今ヶ瀬がファンデーションについて詰問し、恭一に有無も言わさなかったことで、恭一からフラれてしまう。恭一が弁解しなかったのは、女性と交際したかったからというより、ひとえに今ヶ瀬が自分を尊重してくれないことを悟ったからだと思う。今ヶ瀬は今ヶ瀬の尊厳に固執する(恭一を独り占めすることに腐心する)あまり、恭一の尊厳に気を払えなかった。

 海のシーンあたりで、今ヶ瀬はこのことに気付いたのではないかと思う。あるいはもう少し後かもしれない。

 

 

3度目のセックスについて

 今ヶ瀬はグロテスクになった自分を恥じていたのかもしれない。自分の執着心と訣別しなければならないと心に誓っていたのかもしれない。

 恭一とたまきが結婚したあとに今ヶ瀬が張ってきて、それを恭一が見かけて「お前はもう要らない」と告げたが、もしかしたらそこで「これっきりにしよう」と決心をしたのかもしれない。

 3度目のセックスに向かうモチベーションが、恭一と今ヶ瀬でまるで違っていた。せっかくえっちなシーンなのにずっとハラハラしながら見ていた。セックスが終わると恭一が「一緒に暮らそう」と切り出したが、それこそが今ヶ瀬が2年間、あるいは更に長く待ち望んでいた言葉であり、今ヶ瀬が自身の呪縛を解くために必要な言葉であった。

 今ヶ瀬は夏生か誰かに「好きな人に振り向いてもらいたくて必死です」と言っていたが、恭一が今ヶ瀬のことを心から好きになって、その誠意を示したことで、今ヶ瀬が固執していた夢が叶ってしまった。よかったといえばよかったんだろうけど、長い間それをモチベーションにして恭一を追いかけ続けていただけに、今後恭一とどう向き合っていけばいいのか分からなかっただろうし、何より自分が恭一のことを(本当に)尊重していく自信を喪っていただろうから、夢が叶うと同時に深い失望を味わったのではないだろうか。

 喩えが適当か分からないけれど、長いマラソンをゴールしたらその先が崖とか、苦労して取った資格が合格した時には形骸化していたとか、そういう失望の只中にあったんじゃないかと思う。

 一緒に暮らそうって言われた時には嬉しそうだったが、少しして冷静になったのか、今ヶ瀬は灰皿を捨てて恭一の家を出ていく。既に落ちている恭一は、今ヶ瀬との生活という希望を胸に、たまきに別れを告げに行く。

 

 

最後のシーンは何なのか

 これは見た人の間でも解釈が分かれるところだと思うが、僕がこうではないかと思ったことを書く。映画ベース(結末がボカされている)で書いていくが、もしかしたら原作では明示されているのかもしれない。

 今ヶ瀬が灰皿を捨てていったのは、もうここには戻ってこないっていう決意を表したかったからだと思う。そこには恭一を付き合わせてしまった申し訳無さとか、今後はたまきと宜しくやって幸せになって欲しいって願いも込められていたかもしれない。

 恭一は馬鹿なので、ひとの気持ちを汲み取ることが出来ない。利己的なのが染み付いている。だから灰皿に込められた思いとかをガン無視して、ゴミ箱から拾い上げて洗いだす。僕はこのシーンでダメだった。恭一が灰皿をニコニコと洗っている。乾かして、机の上に置いている。お前ッ・・・お前ーーーーーーッ!!!って感じで見ていた。

 今ヶ瀬は3たびでも4たびでも俺の元へ帰ってくる、と信じて疑わない恭一の屈託ない笑顔に参ってしまった。まあ、そういう自信をつけさせたのも他ならぬ今ヶ瀬であるのだけど、当の今ヶ瀬はその間、他のどうでもいい男とセックスして気を紛らそうとして、それでも恭一のことが忘れられなくてワンワン泣いている。

 この時の今ヶ瀬は、恭一のことが好きだった、そして振り向かせることに成功した、しかし自分の身勝手で恭一の人生をめちゃくちゃにしてしまった、もう恭一のそばにいることはできない、でも恭一のことが忘れられない・・・という地獄の苦しみの最中にいた。まるで禁忌に手を付けた報いを受けているようで痛ましかった。ただただ今ヶ瀬がかわいそうで僕は泣いてしまった。

 でも今ヶ瀬が自縄自縛で苦しんでいることは何度か示唆されていたし、恭一が拾ってやるタイミングはいくらでもあった。それでも恭一は拾わなかった。あるいは気付いていなかった。恭一は3度目のセックスで遂に今ヶ瀬を愛したが、それまで――すなわち恭一が今ヶ瀬を愛するまで――は、所詮今ヶ瀬は「セックスもする他人」でしかなくて、拾う義理も、拾うためのアンテナもなかった。

 恭一が今ヶ瀬を救う用意が出来た時には、既になにもかもが手遅れになっていた。そしてそのことを露とも知らない恭一が、今ヶ瀬のために灰皿を置いて、今ヶ瀬が座っていた椅子に腰掛け、今ヶ瀬が帰ってくるのを今か今かと待ちながら、ニコニコと佇んでいるところがだんだん引きの画になって、音楽が大きくなってドンと暗転して、スタッフロールが流れ始めた。

 

 

今ヶ瀬は報われたのか

 ここまで僕は「最終的に恭一は今ヶ瀬のことを本気で愛するようになった」という前提に立って書いてきた。実際他の人の感想を覗きに行くと、概ねそのように解釈されているみたいだった。

 しかしまあ、3度目のセックスのシーンでそう描かれていたとはいえ、具体的にどこでそういう気になったのかは、明示するものがなかったので何とも言えない。

 たとえば今ヶ瀬の誕生日にワインを送ったり、一緒に北京ダックを食べに行ったりするシーンがあったが、このシーンは割と「男の友情」でも成り立つものなので、これを以ってこの時点で両思いだったと評すのはいささか早計である。

 人への恋慕というのは明確な段階を踏んで強くなるものではないので、その境を探るのも野暮な試みではあるが、まあ「ここでは絶対落ちてたよね!!」というのは少し言えるんではないだろうか、と思って考えてみる。

 

使われたローションについて

 1~2度目のセックスのシーンでは、今ヶ瀬がタチ、恭一がネコだった。特に2度目に関してはねちっこくギリギリまで写すものだったが、終始恭一が今ヶ瀬に襲われていた。この時までは恭一も「今ヶ瀬に好きにさせられているだけ」みたいな言い訳をして突き放していたが、実際恭一は今ヶ瀬で性的に興奮することはなかったんじゃないかと思う。

 2度目のセックスのシーン・・・だったっけ、ちゃんと覚えてないけど・・・今ヶ瀬がローションの入った瓶を傾ける箇所があるが、見た感じツーッと細く垂れていて、オイリーなテクスチャだった。

 ゲイ向けのローションとしてはペペの「バッグドア」みたいな、いわゆるグリセリン系(ウォーターベース)の安価で量の多いものがそれなりにあるし、シリコン系みたいなマットで長続きするものもあるが、それ以上に処理が面倒くさいオイル系、しかも無色透明なやつを使っていて、んんん?と前のめりになって見ていた。

www.ms-online.co.jp

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 苦手な人もいるだろうからブラウザバック推奨にしておくけど、普通ゲイのセックスといえばローションを使う。ゲイセックスは肛門に陰茎を出し入れするわけだが、肛門は性交用に出来ていないので、必ず潤滑剤を使ってやらなければならない。

 グリセリン系、シリコン系、オイル系と、立て続けに3つも専門用語を使ったので、混乱している諸兄もいると思う。ので、少しだけ解説しておく。

 グリセリン系(ウォーターベース)は所謂ローションで、薄めたスライムみたいなやつ。無色透明でぬるぬるしていて、男女の性交に広く用いられる。女性器に対して使うなら申し分ないのだけど、肛門に入れるとなると、成分が下痢を誘発する。そもそもウォーターベースって言うくらいだから水が主成分で、肛門に入れると腸が水分を吸ってしまうので、すぐカピカピになる。でもパッと使えてすぐヌルヌルになるし、水で流せば簡単に落ちるので、サクッとセックスしたい時に重宝する。上に貼った「バックドア」というのは、粘度を高めにしてるゲイ向けのもので、他の潤滑剤より安価。

 シリコン系はマットでオイリーなテクスチャ。アナルプレイだと比較的スタンダードな潤滑剤で、ペペほど安価ではないけど種類が多い。油っぽくて腸で吸われないので長持ちするけど、そのぶん水でなかなか落ちない。そこそこの時間をかけてイチャイチャとセックスしたい時はまずこれを使う。

 で、オイル系。アナルセックスは感染症になる危険が膣性交よりも格段に高い(双方傷つきやすく血が混じりやすい、ゲイのエイズ罹患率が高いのもこれが原因)ので、いかなる時もコンドームをつけるのが鉄則であるが、オイル(と一部のシリコン系)はコンドームを溶かしてしまう。よっぽど気心しれた仲か、対応する高めのコンドームをバンバン使える人であれば使ってもいいかもしれないが、そういうわけなんであまり推奨されない。僕は使ったことがないが、洗い落とすのもめちゃめちゃしんどいらしい。つけてから肌に馴染むのにも時間がかかるが、しかし何と言っても長時間持続するので、一日中繋がっているのであれば都合がいいのかもしれない。

 

 と、ここまで読んで皆さんにも僕の「ん?」が共有できたかもしれない。

 単に映画の小道具担当の人が深く考えていなかった可能性もあるが、本当にオイル系のローションを使っていたなら、恐らく2回目のセックスは長時間に及んでいたはずで、しかもこれを恭一が拒む描写が特になかったので、この時点で恭一は今ヶ瀬にかなり気を許していたと見ることができるかもしれない(単に潤滑剤の使い分けについて恭一が知らなかっただけという可能性もあるが)。

 

ポジションの逆転

 1~2度目のセックスでは今ヶ瀬がタチ、恭一がネコだったわけだが、3度目のセックスではこれが逆転している。

 つまり恭一が今ヶ瀬を襲う格好になったわけだが、もし前後のシーンから今ヶ瀬が意気消沈している/恭一に対して冷めている/申し訳無さが先行しているとしても、それがリバースの完全な説明にはならない。

 少々乱暴な言い方になるが、セックスは(特に男が登場するセックスは)片方が勃起していないと行為にならない。もちろんお互いが満足を得る方法は他にいくらでもあるが、特に映画のように一方が一方を襲う構図を作るためには、少なくともどちらかが勃起していなければならない。

 で、今までは今ヶ瀬が恭一に興奮していた(=勃起していた)ので行為が成り立っていたが、3度目では恭一が挿入する側になっている。すなわち3度目のセックスでは恭一が勃起していたことになる。

 つまり少なくとも3度目のセックスの時点では、恭一が今ヶ瀬に性的に魅了されていて、性的対象として意識していたと言うことが出来るわけであるが、ではこのような構図になったのがどのタイミングなのか、というのは一考の余地がある。

 上の項目で、2度目の行為時にはある程度の信頼関係があったのでは、と考察したが、この時から3度目までの間のどこで、恭一がリバになったのかということである。

 整理すると

  1. 2度目の頃には性的に意識していた
  2. 2度目~3度目の間のどこかで意識するようになった
  3. 3度目で初めて意識するようになった

のいずれかだと考えられる。

 1.の考えが一番「おいしい」が、まあ一番可能性があるのは2.だろう。今しがたググったところ、この2.の期間は2年くらいあるらしい。本当か? 劇中にそんな描写あったか??

 なにより2.が推せる根拠は、3度目のセックスがそれまでより比較的スムーズに、さも当たり前のようにされている点である。ちょっと慣れてましたよね、あの人たち。

 しかし僕は3.の可能性も捨てきれない。これは最後のシーンに繋がるものだが、今ヶ瀬が恭一との関係を断つ覚悟を決めた背後に「当初の目的を果たしてしまい、進路が分からなくなったから」という理由があるとしたら、その目的、すなわち「恭一を振り向かせたい」の中に、「恭一を性的に魅了したい」というものも含まれているのではないかと思うからだ。

 もちろん「性的に魅了する」ということをとうに達成した上で、3度目で内面の部分で決意をさせたことが「達成」であった、というパターンも想像できるが、3度目で初めて能動的に愛してくれたことが引き金になって・・・というパターンでも説明がつく。

 でもそう捉えるなら、灰皿がゴミ箱に捨ててあったのは覚悟を示してのものなのか、それとも感情的なものなのかもブレるのかなあとか、他のところにも迷いが出てきて・・・。

 普段人のお気持ちを食って生きているので、こういう時に自分のお気持ちが定まらないですね。damn...

 

たまきを椅子からどかす

 3度目3度目って書いてるけど本当に3度目だっけ・・・?という迷いがここに来て生じているところではありますが、まあ引き続き3度目と書きますと、この時より少し前に、恭一とたまきが寝るシーンがあるじゃないですか。

 たまきちゃん一途でスレてなくてかわいいなあとか割とみんな思ったと思うんだけど、この時にたまきがハイチェア(?)に腰掛けるのを見て、恭一が「おいで」って言うシーンがあって。

 あの椅子は今ヶ瀬がよく腰掛けていたもので、そこに他人が座るのが我慢ならなかったんだと思う。しかしたまきは恭一の嫁で、家の椅子に座ろうとたまきの勝手なわけだから、完全に恭一が個人的に嫌だったと見ることができると思う。

 この時点で恭一の今ヶ瀬への忠誠心みたいなものはかなり高かったように思うから、仮に前項の3.が真実だったとしても、それが行為の最中に芽生えたというよりは、それよりも前の段階で、既に今ヶ瀬への気持ちが出来上がっていたのではと考える。

 このシーン込みであのシーンだったので余計に切なかったなあ・・・。

 

 

全員が不幸になったのか

 僕の解釈だと、オチにあまりにも救いがなくなる。BLモノなんて大概そうよな・・・とか思っちゃうけど、まあオチを好意的に見るなら「悪いことをした人が全員罰を受ける」と言うこともできるし、あるいは解釈ごと変えて「今ヶ瀬はあのあと恭一のところへ戻ってきてハッピーエンド」と見ることもできるであろう。

 全員が不幸になった、というより、恭一が全員を不幸にし、最終的にその報いを受けた、という方が正しいかもしれない。そんな恭一が最後の最後でニコニコしていたので、見終わってすぐは非常に嫌悪感があった。

 今ヶ瀬がかわいそうなのは言うまでもない。半ば八つ当たりではあるが、社会が同性愛にもっと寛容であれば、恭一の逃げ道を塞ぎ、言い訳をさせないことができたはずである。夏生に関しては社会的偏見を盾に今ヶ瀬を攻撃していたし、そのまま奪い取って見せた(実際には失敗したが、今ヶ瀬からは奪い取られた部分しか見えていない)ので、作中一のクズキャラは恭一じゃなくて夏生なんではないか。

 なによりたまきがかわいそう。たまきのお母さんも報われない・・・。

 

Twitterで示唆に富む書き込みがあったので貼っておく。

 

 

 

完走した感想

 長い! マジで長い。もう終わりかな? って思ったところから1.5倍あった。130分は伊達ではない。

 見てたらあっという間って作品でもない。とにかく描写の仕方がねちっこい。背景の種類も家、会社、渋谷、原宿と、そんなに多くはない。でも話が次々に変わって、展開から目が話せなかった。邦画にありがちな、緩急をつけるためにとりあえず登場人物を走らせたり、でっかい音楽を流したりということもなく、淡々としていた。それが却って、ことの生々しさを際立たせていた。

 大倉くんと成田くんの絡みがスゴいよ!との噂に釣られて見に行ったが、あくまでコミュニケーションのひとつとして性行為を描いていて、その映像自体に性的魅力を感じるというものではなかった。大倉くんも成田くんもかっこよくて魅力的だけど、僕はどうしても話に入れ込んでしまって、生々しさとかグロさばかり受け取ってしまった気がする。こういうのはもっと力を抜いて鑑賞すべきだったか。

 それと大倉くんを魅了していく女たちが「恭一みたいな男はこういう女に弱いだろうな~~~~」って人ばかりでよかった。

 そして何より大倉くんも成田くんも演技が上手。特に大倉くんは「怪演」だった。今ヶ瀬を見下し、突き放し、それでも離れることができない情けない男を見事に演じ切った。しばらく大倉くんの顔を見るのが嫌になりそうだった。

 

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 映画を観て放心するとか、腰を抜かすということは今までなかったが、この映画は観終わって電気が点いてから、数秒間席から立てなかった。

 ざわざわと周囲が話し始め、大倉くんがえっちだった~~~とか成田くんとの絡み少なくない~~~?とか聞こえてきて、う~~ん??とか思ったら立てるようになった。

 スクリーンを出てエスカレーターを降りる間、急に悲しくなってきて、涙が止まらなくなった。劇場のロビーらへんで少し休む必要があった。

 

 思い出してたら筆が乗ってしまい、つい1万字も書いてしまいました。

 切なくてずっしりくる、いい映画でした。観てない方は是非、劇場でやってるうちにご鑑賞の上、解釈・感想をお寄せください。